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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年03月05日
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米倉主計助忠継

 重継の嫡男忠継は、父亡き後、主計助として甘利家に仕え、武川衆の領袖を兼ね勤めた。

 天正十年(一五八二)三月、武川衆は勝頼より特殊の任務を与えられ、その指揮に従ったが、中途で計画が変わったため、活動の棟会を得なかった。

  • 『甲斐国志』に、

 

「天正壬午(十年)ノ時、新府ニテ勝頼謀略アリテ、面々ノ小屋へ引入ア  

ルべシトノ儀ナリ、各々其ノ意ヲ守リシカドモ其ノ謀相違セシ故、武川衆ニハ勝頼ノ供シタル人ナシ、トアリ。」

 

と記しているのである。

 武川衆諸士のうちでも、殊に領袖をもって見られていたのが、折井次昌・米倉忠継・山高信直らであった。

  • 「米倉忠継譜」に、

  • 天正十年(一五八二) 

勝頼没落ののち、織田右府(信長)より武田家の士を扶助する事を禁ず。  これによりて東照宮(徳川家康)、成瀬吉右衛門正一をもつて潜に命を伝へられ、折井市左衛門次昌とともに、甲斐国市川においてまみえ奉り、月俸をたまひ、仰によりて遠江桐山に潜居す。

  • 天正十年六月

    六月右府(信長)事あるののち、北条氏直甲斐国をうかがふにより、東照

    宮甲府に御進発の聞えありしかば、折井次昌とおなじく三河路に出でて御

    馬を迎へ、仰せを受けて本国に帰り、武川の士をして御麾下に属せしむ。

  • 天正十年七月

    御先手の勢を向けらるるの時、北条氏直若神子に出張し、しばしば武川の士を招くと雖もうけがはず、しかのみならず北条に属せし小沼の小屋を打破る。この旨台聴に達せしかば御感ありて、十五日次昌と一紙の御書を下さる。

  • 天正十年七月二十四日

    樫山に御着陣の時、次昌とともに武川の者を進退すべき旨、仰せを蒙る。

  • 天正十年八月

    北条氏直武川の士を従へんがため、中沢縫殿右衛門某、同新兵衛某二人をして計策の状を贈る。忠継・次昌と相はかりて武川の士をして二人の便を討取らしめ、其の謀苔を奪ひて新府の御陣にたてまつる。

  • 天正十年十二月七日

    甲斐国円井郷にして四百三十貫文を知行すべき旨、御判物を賜ひ、歩卒を

    あづけらる。

  • 天正十三年(一五八五)九月

    真田昌幸が寵れる信濃国上田城を攻らるるのとき、弟六郎右衛門信継等と

    ともに大久保七郎右衛門忠世が手に属し、軍忠を励まし、また証人として

    妻子を駿河国興国寺にたてまつりしにより、

  • 天正十四年(一五八六)正月十三日

    武川の士一紙の御書を下さる。

  • 天正十七年(一五八九)

    円井郷のうちにおいて七百石を賜ひ、この年三吹・牧原・白須三郷にして

    四百石を加賜せらる。

  • 天正十八年(一五六〇)八月

    家康関東に入らせたまふののち、更に武蔵国鉢形において、采地七百五十

    石を賜ふ。

  • 慶長四年四月死す。年五十六。法名珠元。

 

とある。慶長四年(一五九九)四月に五十六歳で没したとあるから、天文十三年(一五四四)の生まれである。天文二十一年(一五五二)に父重継が信州苅屋原城攻撃に際し、竹束戦法を工夫して同城を攻略したとき、忠継は九歳であった。

 武田家の没落に遭った天正十年には三十八歳の働き盛り、忠継とともに武川衆を指揮した折井次昌はこの時五十歳、円熟老成の武将のコンビであった。両士に率いられた武川衆武士団の強力な団結と勇敢な行動によって、巨摩郡北部での徳川家康の対北条的軍事力の優位性は、着々と確立されていった。満足した家康は、両士に宛てて次の感状を与えた。

 

  其の郡において、別して走せ廻らるるの由、祝着に候、各々相談有り、

いよいよ忠信を抽んでらるべく侯。恐々謹言

   (天正十年)七月十五日    家康 (花押)

  米倉主計助殿

  折井市左衛門尉殿

   (寛永諸家系図伝)

徳川家康が、武田家の遺臣とはいえ、一介の浪人の群れとも見られる武川衆の折井・米倉両士に対し、かくも丁重な感状を与えたことは、この時両士が指揮した武川衆部隊の武功が抜群のものであったことの証拠である。

 また折井・米倉両士としては、さきに主家武田氏没落の際、織田信長の苛酷な迫害から保護してくれた上、遠江桐山村に潜居させた家康の恩誼に対する報謝の行為であった。

  • 『武徳編年集成』

『武徳編年集成』によれば

 

七月十五日、甲陽巨摩郡ノ内、武川津金ノ族、阿部善九郎ニ拠テ駿府へ人質ヲ献ズ。即チ当座ノ堪忍分トシテ月俸ヲ賜ハリ、武川ノ士ノ棟梁米倉・折井ニ感状ヲ授ケラル。

 

とあって、前記感状を掲げている。武川衆諸士が妻子を人質に差し出したので、家康もその忠誠に深く感じたのである。

 これより先、甲信両国が北条氏直によって占領されつつある、との情報を得た家康は、七月三日に浜松を出陣、五日は江尻泊、中道を甲州に入り、八日精進泊、九日阿難(女)坂、迦葉(柏)坂、右左口峠を強行突破してその日のうちに甲府に到着した(『家忠日記』)。家康の入峡を見、ついで感状を授けられた武川衆の士気が高まったことは言う迄もない。

 

  • 北条氏直について

 先に入峡した氏直としても、無為でいたわけではない。

『甲斐国志』付録の収める天正十年七月十八日付け、黒沢上野介繁信(北条氏直重臣)の甲州金山衆に与えた書状に、

「一昨日ハ、各ミ御代官トシテ両三人指越サレ候、御忠節ノ至り、則チ御陣 下へ申上候間、定メテ安房守殿御直吉ヲ以テ仰セ、越サルべク候」

 

とあるように、栗原筋の黒川金山衆(田辺・深沢・橋爪などの諸氏)に働きかけているのである。

さらに同書付録所収、北条家重臣高城下野守胤辰が甲州郡内某に与えた八月十二日付け書状に、

 

「当口動(テダテ)ノ様子ハ、甲州若御子卜号スル地ニ御馬ヲ立テラレ候、家康ハ本府中ニ在陣、又新府中卜申スニモ人衆二、三千人(中略)無ニノ御一戦ヲ遂ゲラルべキ由ニ候、敵ハ無衆、御当方ハ大軍、其ノ上信甲ノ衆悉ク御味方ニ参ラレ、逐日御威光増進シ候ノ間、御勝利ハ眼前ニ候」

 

というもので、息気衝天の趣がある。

大軍を擁する北条方は、当初のうちは、寡兵の徳川方を呑んでいた。しかし、家康の打った手には無駄がなく、武川衆はもとより津金衆も、家康に協力を誓い、北条方の甘い誘いを退けたのである。

 この頃、米倉信継・同信俊らは信州佐久・諏訪両郡の問をさかんに奔走していたらしい。それは『武徳編年集成』の、天正十年八月、是の月の条下に見える次の記事である。

 

吾ガ兵、信州佐久郡岩崎ニ戦ヒ、北条方ヲ百五十三人討取ル(中略)。津金監物弟修理、小池筑前、米倉主計、折井市左衛門等会合、群議ヲ凝ラシ、板橋ノ嶮ヲ取り敷上道十五里、敵地ノ勝間ガ反(ソリ)ニ砦ヲ設ケ交代シテ守衛シ、佐久郡一揆ノ城砦ヲ抜クベキ旨注進ス、甲州江草ノ小屋ヲ伊賀ノ陣士夜懸シテ是レヲ落サントス、甲州先方ノ士、北条方必ズ後詰セント察シテ伏兵トナル、遂ニ伊賀ノ枠士彼ノ小屋ヲ乗取ルノ処、果シテ北条方三千許り馳セ来ル、甲州先方ノ士是レヲ撃チテ四百七十八人ヲ殺ス、伊賀ノ忰士等、殊ニ御感ヲ蒙ル

   

 と。これによれば武川衆の領袖米倉忠継・折井次昌の両士は、津金衆の領袖津金祐光弟修理亮胤久・小池筑前守の両士とともに、甲州先方衆を統率して軍議に参画したことが知られ、その軍議の結果、北条方が占拠する江草の小屋すなわち獅子吼城の周辺に、津金衆の指揮する伏兵を置き、伊賀衆の領袖服部半蔵正成配下の忰士(カセモノ いわゆる伊賀者、忍びを特技とする)らと協力して、この江草小屋を攻略した上、若神子から応援に駈けつけた北条勢を撃破して四七八人を討ち取ったので、家康はその奮戦振りを賞し、特に伊賀忰士の殊勲を褒めたたえた。伊賀衆は、この年六月の本能寺の変直後、家康が九死に一生を得た伊賀越えに協力し、守り抜いた勇士たちで、のち家康に召し出され、伊賀同心といわれた。

 同書は、この記事の次に項を改めて、

 

北条氏直、先日巨摩郡武川ノ諸士ヲ招クト錐モ是二応ゼズ、氏直再ビ書簡ヲ遣ハス、中沢縫殿右衛門・同新兵衛、氏直ニ随ヒ是ヲ謀ルト雖モ、武川ノ士米倉左大夫(丹後重継ノ弟ナリ)・伊藤新五郎、早速雨中沢ヲ斬ツテソノ首級ヲ氏直ノ書簡ニ添へテ神君ニ献ズ。其ノ後、逸見ノ日野村ノ台、花水坂ニテ武川ノ士、敵卜戦ヒテ、山高宮内信直・柳沢兵部信俊等、首級ヲ得テ新府ニ献ズ、其ノ忠義ヲ以テ遂ニ武川衆ニ本領ヲ賜フ。

 

 と記し、武川衆諸士の敢闘振りを讃えている。

 北条の使者両中沢を、米倉左大夫・伊藤新五郎らに命じて斬らせたのは、米倉忠継・折井次昌の領袖であるが、この英断を武川衆の忠誠に発するものと見た家康は、報いるに武川衆諸士の本領安堵をもってしたのである。






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最終更新日  2019年03月05日 12時42分03秒
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