2311628 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2019年03月05日
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類
  • 米倉昌尹

政継の子昌尹は貞享元年(一六八四)四十八歳で家督、書院番に出仕、元禄三年(一六九〇)五〇〇石加増されて従五位下丹後守に叙任、五年、七年、八年、それぞれ一、〇〇〇石を加増。将軍綱吉は慎独の二大字を自筆して与えた。元禄九年(一六九六)、武蔵・相模・上野三国のうち一万石を知行、諸侯に列し、若年寄に進んだ。上野寛永寺中堂の修造、芝増上寺の修築、山城淀川改修などに功多く、元禄十二年(一六九九)に五、〇〇〇石加増、一万五、〇〇〇石となり、采地は武蔵・相模・上野・下野におよんだ。

 武川衆出身の大名は、柳沢家と米倉家だけであるが、米倉家が大名に列したのは昌尹の功によるもので、中興の主というべきである。

 米倉氏は、享保七年(一七二二)に治所を武蔵国金沢(横浜市)に移し、幕末に至った。

 

  • 米倉重種(のちの武州金沢米倉家)

種継の遺跡は次男平大夫重種がついだ。重種の兄清継が異母兄で、重種の母である継母との折合いがうまくなかったためであろうか、父種継と話し合い、高二〇〇石を分知して別家を創立した。のちの武州金沢米倉家である。

 重種は、家康に仕えて大番(将軍側近の護衛隊)をつとめ、慶長三年(一五九八)には父種継の相模足柄郡の采地のうちから五〇〇石を受け、大坂両陣に従軍したのちは代官をつとめた。寛永四年(一六二七)には功により六八〇石の知行を与えられたが、寛永十三年(一六三六)に父の跡目を相続したので、前に与えられた六八〇石の知行は返上した。

 重種には二男四女があった。嫡男種勝は、寛永七年(一六三〇)に大番となり、九年に産米を、寛永十年(一六三三)二月、新恩二〇〇石を与えられ、廩米は采地に改められた。次男平大夫は万治二年(一六五九)七月に書院番となったが、その以後は明らかでない。

 重種は、次女に兄清継の四男昌継を婿に迎えさせた。昌継は大番を勤めたが、正保三年(一六四六)に没し、嗣子はなかった。

 重種の長女・三女・四女は他家に嫁した。以上は『寛政重修諸家譜』の米倉宗家第四代重種の譜である。このように重種の男系は、種勝・平大夫、女婿昌継のいずれにも嗣子がなく、幕臣として絶家のやむなきに至った。

 しかし、これは建前での話であって、実は重種の系の者が本領宮脇に帰農し、郷士として邑事を掌り、天保年間に『誠忠旧家録』が編集された時は「宮脇村 米倉善八郎義矩・米倉武兵衛保教」の両家が存したのである。

 

 








お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2019年03月05日 13時45分17秒
コメント(0) | コメントを書く


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

10/27(日) メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X