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政継の子昌尹は貞享元年(一六八四)四十八歳で家督、書院番に出仕、元禄三年(一六九〇)五〇〇石加増されて従五位下丹後守に叙任、五年、七年、八年、それぞれ一、〇〇〇石を加増。将軍綱吉は慎独の二大字を自筆して与えた。元禄九年(一六九六)、武蔵・相模・上野三国のうち一万石を知行、諸侯に列し、若年寄に進んだ。上野寛永寺中堂の修造、芝増上寺の修築、山城淀川改修などに功多く、元禄十二年(一六九九)に五、〇〇〇石加増、一万五、〇〇〇石となり、采地は武蔵・相模・上野・下野におよんだ。 武川衆出身の大名は、柳沢家と米倉家だけであるが、米倉家が大名に列したのは昌尹の功によるもので、中興の主というべきである。 米倉氏は、享保七年(一七二二)に治所を武蔵国金沢(横浜市)に移し、幕末に至った。
種継の遺跡は次男平大夫重種がついだ。重種の兄清継が異母兄で、重種の母である継母との折合いがうまくなかったためであろうか、父種継と話し合い、高二〇〇石を分知して別家を創立した。のちの武州金沢米倉家である。 重種は、家康に仕えて大番(将軍側近の護衛隊)をつとめ、慶長三年(一五九八)には父種継の相模足柄郡の采地のうちから五〇〇石を受け、大坂両陣に従軍したのちは代官をつとめた。寛永四年(一六二七)には功により六八〇石の知行を与えられたが、寛永十三年(一六三六)に父の跡目を相続したので、前に与えられた六八〇石の知行は返上した。 重種には二男四女があった。嫡男種勝は、寛永七年(一六三〇)に大番となり、九年に産米を、寛永十年(一六三三)二月、新恩二〇〇石を与えられ、廩米は采地に改められた。次男平大夫は万治二年(一六五九)七月に書院番となったが、その以後は明らかでない。 重種は、次女に兄清継の四男昌継を婿に迎えさせた。昌継は大番を勤めたが、正保三年(一六四六)に没し、嗣子はなかった。 重種の長女・三女・四女は他家に嫁した。以上は『寛政重修諸家譜』の米倉宗家第四代重種の譜である。このように重種の男系は、種勝・平大夫、女婿昌継のいずれにも嗣子がなく、幕臣として絶家のやむなきに至った。 しかし、これは建前での話であって、実は重種の系の者が本領宮脇に帰農し、郷士として邑事を掌り、天保年間に『誠忠旧家録』が編集された時は「宮脇村 米倉善八郎義矩・米倉武兵衛保教」の両家が存したのである。
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最終更新日
2019年03月05日 13時45分17秒
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