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米倉重種(のちの武州金沢米倉家)
重種は、家康に仕えて大番(将軍側近の護衛隊)をつとめ、慶長三年(一五九八)には父種継の相模足柄郡の采地のうちから五〇〇石を受け、大坂両陣に従軍したのちは代官をつとめた。寛永四年(一六二七)には功により六八〇石の知行を与えられたが、寛永十三年(一六三六)に父の跡目を相続したので、前に与えられた六八〇石の知行は返上した。 重種には二男四女があった。嫡男種勝は、寛永七年(一六三〇)に大番となり、九年に産米を、寛永十年(一六三三)二月、新恩二〇〇石を与えられ、廩米は采地に改められた。次男平大夫は万治二年(一六五九)七月に書院番となったが、その以後は明らかでない。 重種は、次女に兄清継の四男昌継を婿に迎えさせた。昌継は大番を勤めたが、正保三年(一六四六)に没し、嗣子はなかった。 重種の長女・三女・四女は他家に嫁した。以上は『寛政重修諸家譜』の米倉宗家第四代重種の譜である。このように重種の男系は、種勝・平大夫、女婿昌継のいずれにも嗣子がなく、幕臣として絶家のやむなきに至った。 しかし、これは建前での話であって、実は重種の系の者が本領宮脇に帰農し、郷士として邑事を掌り、天保年間に『誠忠旧家録』が編集された時は「宮脇村 米倉善八郎義矩・米倉武兵衛保教」の両家が存したのである。
丹後守重継の四男で、天文十九年(一五五〇)に生まれた。『寛政重修諸家譜』に豊継の譜を記す。 武田信玄および勝頼に仕へ、しばしば軍功あり、 天正十年(一五八二)勝頼没落し、東照宮甲斐に入らせ給ふの時、武川の諸士と同じく御味方に加はり、北条氏直に属せし小沼の小屋を攻め破り、弟米倉彦大夫利継および伊藤三右衛門重次とともに、首級を得て新府の御陣に献ぜしかば、御感ありて御手づから御料の 呉服及び御茶碗をたまふ。 天正十年八月六日、氏直よりひそかに中沢縫殿右衛門某、同新兵衛某を使として武川の士を味方に属せしめんとする時、伊藤重次とともにかの二人を討取しかば、御感ありて越前継利作の十文字鎗をたまひ、 十二月七日、甲斐国宮脇五十貫文、および同所において重恩の地二貫五百文、相違有るべからざるの旨、御朱印を下さる。 天正十二年(一五八四)小牧御陣に供奉し、 天正十三年(一五八五)真田昌幸が居城を攻めらるるの時、妻子を駿府に献じ軍功を励ますにより、 天正十四年(一五八六)正月武川の士と同じく一紙の御喜を賜ふ。 天正十七年(一五八九)采地を加へられ、 天正十八年(一五九〇)小田原の役に供奉し、関東に入らせ給ふののち、采地を武蔵鉢形に移さる。 天正十九年(一五九一)九戸一揆の時岩手沢まて屈従し、 慶長五年(一六〇〇)台徳院殿に随ひ奉り、信濃国上田城を改む。のち采地をあらためられ、甲州国八代郡の内において二百石を知行し、甲府城の番を勤む。 元和元年(一六一五)大坂御陣に金はりをして城塁を穿つの時、入戸野又兵衛門宗とともにこれを奉行す。そののち駿河大納言忠長卿に附属せられ、 寛永四年(一六二七)死す。年七十八、法名日祐。
とある。豊継の通称左大夫は、叔父米倉左大夫誠俊の譲りであろうか。それとすれば、豊継は叔父の家の名跡を継承したものであろう。 前記文中の家康の本領安堵状を次に示す。
甲州宮脇村百五拾貫文、同所小沢分重恩弐貫五百文の事 右、領掌相違有るべからざるの状、件の如し。 天正十年 (徳川家康) 十二月七日 米倉左大夫殿
というものである。天正十年十二月の時点において、当年三十三歳の豊継が、宮脇村の本領一五〇貫文を安堵された、ということは、文書の上の確証はないが、武田家全盛の時期において、豊継は叔父左大夫誠俊の家を嗣いで、養父の遺領宮脇村の一五〇貫文を譲られていたものらしく、これを豊継の屢次の戦功を喜んだ家康によって、この十二月七日に承認されたものと思われる。さらに小沢分重恩の地二貫五〇〇文を安堵されたが、これハ米倉支流尾沢氏が武田時代に領したものが、領主の事故(戦死・改易など)によって欠所になっていた所を宛行われたものと思われる。 豊継は、ほかの武川衆と同様に、 天正十二年(一五八四)の小牧陣、 天正十三年(一五八五)の信州上田城攻め、 天正十八年(一五九〇)の小田原陣、武州鉢形移住、 天正十九年(一五九一)の九戸一揆鎮圧に随行、慶長五年(一六〇〇)関原役の際信州上田城攻め、などに精一杯の奮闘をしている。 関原役に勝利を収めた家康は甲信を回復し、武川衆は一〇年振りに武川の諸村に帰任する。豊継ハ本領宮脇村を知行するが、慶長郷村帳によれば豊継の知行高は次の通りであった。
一高 三百三十八石五斗二升 宮脇村 内二宇三石七斗二升 賦倉拡大夫 百二十四石八斗 御蔵入
豊継の武田民時代における宮脇村での所領で、その支配を家康が承認したのは一五〇貫文と、小沢分重恩二貫五〇〇文で、計一五二貫五〇〇文で、豊継の慶長郷村での知行高は二一三石七斗二升であるから、この場合の貫と石との換算率は一貫文が一石四斗に当たる。 その後、采地を改めて八代郡の内で二〇〇石を知行し、甲府城の番を勤めたとあるが、これは武川十二騎のことともみられる。 元和元年大坂夏の陣に、家康は大坂城の石垣や諸塁を穿つために、豊継と入戸野門宗を奉行に命じ、甲州の金掘人夫を動員した。武川筋御座石山の金掘人夫も徴されたであろう。時に豊継六十七歳、当時としては高齢であったが、思うに御座石金山の事務にも関係していて、その実績を評価されての結果であろう。 元和二年(一六一六)に徳川忠長が駿河・甲斐に封ぜられると、豊継は嫡男正継とともに仕え、寛永四年七十八歳で没した。法名日祐。宮脇村の曹洞宗・善徳山江原院に葬られ、荘麗な石室に護られた五輪塔が現存する。 豊継の遺跡は嫡男左大夫正継がついだ。 寛永九年(一六三二)、徳川忠長が没落したため浪人したが、 寛永十七年(一六四〇)、再出仕を許されて御蔵番となり、翌年下総国に采地を移され、二一〇石を知行した。 寛永二十年(一六四三)江戸城三の丸勤番となったが、慶安元年(一六四八)九月四日没した。法名日加。江戸市谷日蓮宗蓮秀寺に葬り、以後代々の葬地となった。正継の子孫は正永が日運、正清が日勝、正良が日義で、日蓮宗徒として当然であるが、初代豊継が禅宗にもかかわらず日祐と号するのは、正継が改宗後父に追詰した結果であろう。
丹後守重継の六男、満継ともいう。天文二十四年(弘治元年、一五五五) の生まれである。 定継の事績は『寛政重修諸家譜』に詳しい。 武田信玄・勝頼父子に仕へ、軍功あり。 天正十年(一五八二)勝頼没落のとき兄米倉主計助忠継とともに東照宮に随ひたてまつり、武川の諸士と同じく御味方に加はり、北条氏直が小沼の小屋を攻め破る。この年新府に渡御ありて氏直と御対陣の時、北条家の斥候を討括り、しばしば戦功を励ますにより、 天正十年(一五八二)二月七日、甲斐国のうちにおいて五十貫文の地を宛行はるゝの旨御朱印を下さる。 天正十二年(一五八四)小牧御陣の時信濃国勝間の砦を守り、凱旋ののち尾張国一宮城を守衛す。 天正十三年真田昌幸が籠れる上田城を攻めらるるの時、妻子を証人として駿 河の興国寺にたてまつり、大久保忠世が手に属して軍功ありしかば、 天正十四年(一五八六)正月武川の士とともに、一紙の御感を賜ふ。 天正十八年(一五九〇)正月二十七日、采地を加え賜ひ、この年小田原陣に供奉し、関東御入国の時甲斐国の采地を武蔵国鉢形に移さる。 天正十九年(一五九一)九戸一揆の時も大久保忠世が手に属して岩手沢まで屈従し、 文禄元年(一五九二)朝鮮征伐の時兵船を造らるるにより、伊豆山よりその材を出すことを奉る。 慶長五年(一六〇〇)台徳院殿上田に御進発の時、大久保忠隣が手に属して随いたてまつる。 慶長八年(一六〇三)甲斐国の旧領に復し、甲府城の番を勤む。のち大坂両度の御陣に屈従し、元和二年駿河大納言忠長卿に附属せらる。八年九月十二日死す。年六十八。法名日継。妻は武田家の臣下条民部左衛門某が女。
とある。壬午の時、定継は二十八歳で、壮年の長兄忠継の指揮に従い各地で殊勲を立てた。家康は十二月七日、定継の所領を安堵した。
本領改香河原部五拾貫文、同駒沢夫丸壱人の事。 右、領掌相違すべからざるの状、件の如し。 天正十年(一五八二) 十二月七日 (家康、印文福徳) 米倉加左衛門尉殿 (記録御用所本)
河原部は韮崎市旧韮崎町の地で、駒沢は双葉町宇津谷の枝村である。定継の本領は、もと武川にあったのを替地して与えたものであろう。兄豊継の例によれば、五〇貫はおよそ七〇石に相当する。 天正十八年(一五九〇)正月、定継は約一六〇石を加増されたようである。 それは慶長郷村帳に、
一高 二官八十八石一升 下円井村 内二百二十九石八斗七升 米倉加左衛門知行 五十八石二斗三升 御蔵入
とあって、約二三〇石を知行しているが、河原部の分を七〇石(もと五〇貫文)とみれば加増分は一六〇石とみられるのである。 加増の沙汰のあった日から四日後、定継は家康により「武川次衆」に列せられた。 (徳川家康、印文福徳) ㊨ 武川次衆の事 曽雌藤助 米蔵加左衛門尉 入戸野又兵衛(六人略) 小沢善大夫 同名甚 五兵衛 同名縫右衛門尉 伊藤新五 (十三人略) 右、各々武川衆に定め置く所なり。依って件の如し。 天正十年十二月十一日
定継と同時に武川次衆に列した小沢縫右衛門尉は、宮脇清三種友の子縫右衛門尉である。天正八年の上州膳城の事件以後、宮脇姓を避けて尾沢(小沢と通用)を名のるようにした。したがって宮脇村の小沢氏は、米倉氏分流とみてよいであろう。縫右衛門尉の講は、『誠忠旧家録』によれば、種治としている。 小沢善大夫は折井氏系の小沢氏に相違ない。というのは、例の十二月七日付安堵状に、
甲州柳沢の内、加藤分三賞文、牧原の内、飯田分四貫文、同所、山口分弐貫 文等の事、 右本給改替相違有るべからず候状件の如し。 天正十年 (印文福徳) 十二月七日 朱印 小沢善大夫殿 (記録御用所木・折井。折井市左衛門拝領・市左衛門正篤書上)
とあって、折角小沢善大夫宛に家康が出した安堵状を、本家格の折井市左衛門尉次昌が、善大夫に代って受領し、そのまま次昌の家で保管して来たことが明瞭だからである。 後世、折居村に任した小沢氏には、善大夫系つまり折井氏分家系のものが多いのである。 定継は慶長年間甲府城番を勤めているが、いわゆる武川十二騎には見えていない。十二騎の顔ぶれも、時により出入りがあったらしい。 定継は、元和八年(一六二二)九月十二日没、享年六十八歳、法名日継、とあるが、当人は日蓮宗門ではなく、この法名は後年のものであろう。 『甲斐国志』に、 「宝永の寺記に、宮脇村の普光寺は、文禄三年(一五九四)小沢善次郎が開基し、寛文元年に米倉嘉左衛門が修築を加えたのであろう」 とある。思うに、寛文元年、中興開山梵九和尚の代に、大檀那の嘉左衛門順林が修築したのであろう。定継と順林は叔父甥の仲であろう。定継の知行は、前記のように下円井村にあって、宮脇村ではない。下円井村宇山本に米倉主計宅跡があり、村人は「殿の杭根(くね)」と呼んでいた という。しかし、下円井村の地頭米倉加左衛門宅跡のことは不明である。思うに定継は兄忠継の旧宅に任したのではあるまいか。『寛政重修諸家譜』によれば定継の系は次の通り。定継(満継)--信継--重継-政矩--基継-改良-正睦-正友-正末、と。定継から数えて九代目の正末は、天明八年(一七八八)三十八歳で家をつぎ、廩米三二〇俵の家禄を受けた。この米倉家は幕末まで続いて江戸に任した。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019年03月05日 13時52分37秒
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