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富士道(ふじみち)<山梨地名百科事典・他>
現国道139号の一部で現大月市-富士吉田市間の古道。現在この区問の国道の通称となっている。富士道は脇道であるため、近世には一定した呼称はなかったようで、 1、富士参詣道者一導者一を対象とした道標には、富士道と書かれているが、 2、上吉田(現富士吉田市)にある富士山からの帰路を示す道標には、江戸路とあり、 3、延享2年(1745)の井倉村(現都留市)の村絵図(谷内俊男家蔵)には江戸への往還とある。 4、嘉永4年(1851)の井倉村の落合橋架替えにつき願書(東京都税務大学校所蔵矢野家文書)には、駿州・豆州への往還、 5、天保14年(1843)の元八湖絵図(北口本宮富士浅間神社蔵)には谷村街道とみえる。 6、「甲斐叢記」には谷村路または富士道とある。 <富士道・富士街道> 富士道という呼称は富士参詣の道者が往来した道を表すもので、近世に信仰登山の盛んであった頃には、富士山周辺や関東各地に富士道・富士街道という呼称があったようである。 1、東京都内でも富士道という道標が残るといわれ、 2、神奈川県でも大山街道を進むと大山より先では富士道とよばれたと伝えられる。 3、山梨県内でも東八代郡御坂町成田の鎌倉街道沿いには富士大山道と刻む道標があり、富士道とよばれたという伝承をもつ道がある。 4、とくに大月~上吉田を結ぶ道は古くから富士道者が集中的に通行した道であった。道筋は、近世の村絵図などによると甲州道中大月宿でほぼ南西に向かって分岐し、桂川沿いに上流に進み、田野倉・井倉・古川渡・四日市場・下谷村・上谷村・十日市場・夏狩・境(現都留市)、倉見・小沼(現西桂町)、小明見・下吉田を経て上吉田(以上現富士吉田市)で鎌倉街道に接続する。 <通行の記録> 1、『勝山記』には、明応9年(1500) 「此年六月富士へ道者参ル事無限」 と多数の富士道者の参詣が記され、 2、そのほか天文17年(1548)などに富士道者に関する記述は多い。 3、永禄4年(1561)には郡内の領主小山田信有より上吉田の御師に対して道者200人の通行免状が発せられており(同年10月25日「小山田信有過所」小猿屋文書)、元亀3年(1572)頃には小山田信茂は甲斐・相模和睦による道者の増加を見込み、道者関銭を半分とした(三月吉日「小山田信茂書状」 同文書)。 これらは当時の領主の道者保護策とそれにより、郡内地方を金銭的にうるおす多数の参詣者の存在をうかがわせる。 4、なお天文元年(1532)小山田氏が屋敷を谷村(現都留市)に移すまでは(『勝山記』)屋敷のあった中津森から薄原・平栗・加畑(現都留市)などの桂川北岸を通る富土道があったという伝承があり、 5、また享禄3年(1530)に小沼と小明見の境の米倉橋が架かるまでは、倉見から山を越えて小明見に出て大明見(現富士吉田市)を通る道があったといはれる。 近世に入ると、元和年間(1615~24)長谷川角行が新しく富士信仰の教義を立て、いわゆる「富士講」といわれる庶民信仰が広まり、享保年間(1716~36)に富士講中興の祖といわれる食行身禄が出て、江戸をはじめ関東一円に富士講の隆盛をみた。 角行・身禄は吉田口より登山して修行したので、富士講では吉田口を登山本道としたため、大部分の道者はこの道を利用するようになった。 当時の様子を残すものとして、道筋には大月追分・井倉・四日市場・夏狩・小明見などには「ふじみち」の道標があり、夏狩・小沼には身禄堂がある。道沿いの谷村には浅野氏・鳥居氏・秋元氏などが城を構え、幕府領時代には陣屋が設けられて郡内地方の政治的中心となったことから、谷村への往還としての利用も多かった。 <お茶壷道中> 寛永(1624~44)から元禄(1688~1704)の頃、山城宇治(現京都府宇治市)から幕府へ献上の茶が中山道・甲州道申・鎌倉街道を経て谷村城に運ばれ保管された。このためこの道は「茶壷路」・「茶付け路」ともよばれた(「徳川実紀」など)。 <郡内織物の隆盛> 元文(1736~41)頃より郡内では織物の生産が高まり、従来の林野産物に加えて織物を売出し、食料・茶・塩・桑葉・生糸・染料などを買入れる商業活動が盛んになり、駿河・伊豆・相模方面と多くの物資がこの路を通って運送されるようになった。 鎌倉街道との接続点である上吉田には荷継問屋が置かれ、沿道の村々から駄賃稼といわれる馬士が出て運送にあたった。運送量が増加すると荷継問屋は継口銭の値上げを図り、小沼村では新規に荷継問屋の開設が企てられるなどして、谷村商人や馬士と対立し、しばしば訴訟が起こされた寛保元年「駿州村々荷物口銭増につき訴状」(渡辺誠家文書など)。この駄賃馬のなかには上吉田・下吉田を通らず、忍草村(現忍野村)から大明見・小明見を通る近道をする者もあった。 文化(11804~18)初年当時谷村~上吉田間2里33町余の賃銭は、本馬260文・軽尻181文・人足125文であった(甲斐国志)。 また夏季の富士登山時節には登山道者のための馬や山駕籠が沿道村々に用意されたが、登りが急になり、溶岩地帯で歩きにくくなる十日市場村・夏狩村・小沼村には馬寄場があったようである。 賃銭は谷村~上吉田間で馬400文・山駕籠2朱200文であった(安政4年「参詣人への馬士不法につき取締願書」小沢鯉一郎家文書など)。 こうした馬による稼が多かったため、沿道には馬頭観音が多くみられる。 <郡内三十三観音霊場> 富士信仰のほかにも、この沿道には郡内三十三観音霊場が設けられていたため、霊場巡礼者もみられたようである。 明治36年(1903)当道筋に中央線大月駅と山中村(現山中湖村)を結んで馬車鉄道が敷かれた。その後国道8号の一部として漸次拡幅整備が進められ、現在の国道139号の道筋となった。このため近世以釆の路はその姿を変え一部は集落内の生活道路となり、廃道となった所もある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019年03月05日 17時05分50秒
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