2313887 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2019年03月06日
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類
​​女女​女性ではじめての天皇

  孝謙(称徳)天皇 こうけん(しょうとく)

 養老二年(718)聖武天皇の第一皇女として誕生。母は光明皇后。諱を阿倍といい、天平宝字(てんぴょうほうじ)二年そんごうたてまつりかのてんびよう
(七五八)上台宝字称徳孝謙皇帝(じようだいほうじしようとくこうけんこうてい)の尊号を上(たてまつ)られ、また高野姫尊・高野天皇とも称された。

 天平十年(738)女性としてはじめての皇太子となり、天平勝宝元年(七四九)七月聖武天皇の辞りを受けて即位した。在位中の政治は母光明皇太后と寵臣藤原仲麻呂(恵美押勝 えみのおしかつ)の施策によるところが多かったとみられる。
 聖武太上天皇の崩後の、遺詔(いしょう)よる皇太子道祖王(ふなどおう)を廃して、仲麻呂と親しい大炊王(おおいおう、淳仁天皇 じゅうじん)を立て、天平宝宇二年八
月、に位を譲った。同四年光明皇太后が崩じ、翌年天皇とともに近江保良宮(おうみのほらのみや)に記御幸したが、そのころから両者の不和が顕在化した。すなわち、保良宮で上皇が看病僧道鏡を寵愛したのが起因であった。
 平城宮に還御(かんぎょ)すると、天皇は中宮院に、上皇は法華寺にと別居し、六年六月上皇は軒を百官集めて、国家の大事と賞罰のことを行うと宣言した。淳仁天皇と結んだだ藤原仲麻呂はに窮地におちいり、八年九月兵乱(恵美押勝の乱)を起した。上皇はこれを討滅し、道鏡を大臣禅師に任じ、淳仁天皇を廃して淡路に流し、みずから重祚し、称徳天皇という。以後、天皇は道鏡を信任して重く用い、天平神護元年(765)には太政大禅師、翌二年には法王とした。道鏡は法王宮職をおき、政治を専断したが、やがて宇佐八幡神の託宣と称して皇位につこうとした。しかし和気清麻呂による託宣の否認によってその企ては失敗し、天皇も宝亀元年(770)八月四日一崩御した。時に年五十三。大和添下郡高野陵(たかののみささぎ)に葬られた。天皇は在位中父聖武天皇発願の東大寺大仏の開眼供養会(かいげんくようえ)を行いまた恵美押勝の乱平定を祈願して西大寺を造営し、乱後には三重小塔二万基(百万塔)を造るなど仏教興隆に尽くしたが、他方、仏教は政治と癒着し、道鏡の専制を許すことともなった。
 
じゅうそ【重祚】1度位を退いた天皇が、ふたたびその位につくこと。

  参考資料
 北山茂夫『日本古代政治史の研究』
   同 『女帝と道鏡』(『中公新書』一九二
上田上昭 『日本の女帝』(『講談者現代新書』三三七) 
  中川収『奈良朝政冶史の研究』
 (林陸朗)

性ではじめての天皇​


  孝謙(称徳)天皇 こうけん(しょうとく)

 養老二年(718)聖武天皇の第一皇女として誕生。母は光明皇后。諱を阿倍といい、天平宝字(てんぴょうほうじ)二年そんごうたてまつりかのてんびよう
(七五八)上台宝字称徳孝謙皇帝(じようだいほうじしようとくこうけんこうてい)の尊号を上(たてまつ)られ、また高野姫尊・高野天皇とも称された。

 天平十年(738)女性としてはじめての皇太子となり、天平勝宝元年(七四九)七月聖武天皇の辞りを受けて即位した。在位中の政治は母光明皇太后と寵臣藤原仲麻呂(恵美押勝 えみのおしかつ)の施策によるところが多かったとみられる。
 聖武太上天皇の崩後の、遺詔(いしょう)よる皇太子道祖王(ふなどおう)を廃して、仲麻呂と親しい大炊王(おおいおう、淳仁天皇 じゅうじん)を立て、天平宝宇二年八
月、に位を譲った。同四年光明皇太后が崩じ、翌年天皇とともに近江保良宮(おうみのほらのみや)に記御幸したが、そのころから両者の不和が顕在化した。すなわち、保良宮で上皇が看病僧道鏡を寵愛したのが起因であった。
 平城宮に還御(かんぎょ)すると、天皇は中宮院に、上皇は法華寺にと別居し、六年六月上皇は軒を百官集めて、国家の大事と賞罰のことを行うと宣言した。淳仁天皇と結んだだ藤原仲麻呂はに窮地におちいり、八年九月兵乱(恵美押勝の乱)を起した。上皇はこれを討滅し、道鏡を大臣禅師に任じ、淳仁天皇を廃して淡路に流し、みずから重祚し、称徳天皇という。以後、天皇は道鏡を信任して重く用い、天平神護元年(765)には太政大禅師、翌二年には法王とした。道鏡は法王宮職をおき、政治を専断したが、やがて宇佐八幡神の託宣と称して皇位につこうとした。しかし和気清麻呂による託宣の否認によってその企ては失敗し、天皇も宝亀元年(770)八月四日一崩御した。時に年五十三。大和添下郡高野陵(たかののみささぎ)に葬られた。天皇は在位中父聖武天皇発願の東大寺大仏の開眼供養会(かいげんくようえ)を行いまた恵美押勝の乱平定を祈願して西大寺を造営し、乱後には三重小塔二万基(百万塔)を造るなど仏教興隆に尽くしたが、他方、仏教は政治と癒着し、道鏡の専制を許すことともなった。
 
じゅうそ【重祚】1度位を退いた天皇が、ふたたびその位につくこと。

  参考資料
 北山茂夫『日本古代政治史の研究』
   同 『女帝と道鏡』(『中公新書』一九二
 上田上昭 『日本の女帝』(『講談者現代新書』三三七) 
  中川収『奈良朝政冶史の研究』
 (林陸朗)


​​





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2019年03月06日 14時04分07秒
コメント(0) | コメントを書く


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

10/27(日) メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X