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2019年03月06日
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武田18代 武田信虎
<信虎の略歴>
・信縄の長子。母は側室の岩下夫人。寅年の明応3年(1494)年1月6日生まれ。
・山梨市春日居町下岩下に誕生屋敷がある。幼少名、川田五郎。元服名信直。左衛門大夫。左京大夫。陸奥守。甲斐国守護。
・御旗・楯無相伝第26代。大永元年4月従5位下に叙せられて信虎と改名。旗は地黒で上に朱の丸、中に朱の横筋、裾に朱の武田菱。朱印に2頑の虎を使用。
<信虎・駿河~京都~信濃>
・天文10年(1541)6月14日婿の今川義元のもとへ赴く途次、不仲の信玄に国境を閉鎖されて追放される。
・永禄3年(1560)の義元討死後、孫氏真と折り合いが悪くなり、
・永禄6年(1563)1月上洛して娘婿の今出川時季を頼る。将軍足利義坪の相伴衆となって桐の紋を賜わる。駿河に23年、京都に10年の異国生活を送る。

<信虎の初陣>
 15歳 永正5年(1509)
・10月、初陣で武田家当主の地位を狙う叔父油川信恵(のぶよし)を居城の勝山城(中道町曽根)に奇襲して勝利。
・12月、信恵の母の実家、都留郡の小山田弥太郎信隆の襲撃を受けたが、これも討死させて大勝利。
・永正7年(1511)春、伊豆へ逃亡していた信陸の子越中守信有(平三)と和睦をして妹を嫁がせ、野心に満ちた甲州統一に乗り出す。
・永正16年(1519)居館を石和(川田)から甲府のつつじが崎へ移し、国主の地位を狙う多くの同族を打ち破る。
・大永元年(1521)侵攻してきた駿達勢1万5千の大将福島正成を討ち取って武田家を守護大名から戦国大名へ押し上げる。
○信虎の長子竹松は7歳で夭折、その冥福を祈るため寺を造り、後奈良天皇から功徳山天専鉢寺という勅額を賜わる。
○信虎は国内統一の過程で反発した油川、岩手、大井、栗原、今井、逸見、穴山など多数の同族を伐り従えて恨まれたが、甲州統一という大事業を完遂した功績は高く評価され、諸国から浪人衆が大勢流れ込む。
○信玄の寵児高坂昌信は信虎を悪大将、狂気人と蔑んだが、それは自分を取り立ててくれた信玄を盛り立てるための見え透いた言動である。
・大永7年(1527)に駿河の今川氏輝と和睦をし、その後関東や信州佐久郡へ出兵し、信州善光寺へ参拝。
・享禄元年(1528)に諏訪頼満と戦った。
・享禄4(1531)年には飯富兵部・栗原兵庫・大井信業・逸見信元に背かれたが、韮崎の河原辺で打ち破る。
・天文元年(1532)に逸見信元が出仕し、ここに信虎の辛苦25年にわたる国内統一戦が完了する。
・天文4年(1535)初め今川氏輝との和睦が破れると、信虎は国境の万沢口で氏輝と戦う。
○その間氏輝と同盟している北条氏綱が籠坂峠を越え富士吉田へ侵入し、防戦した実弟信友や多くの小山田衆が打ち殺される。
・天文4年(1535)9月これまで敵対関係をあった諏訪頼満と そこで信虎は背後の安全を確保する必要に迫られ、和睦する。○諏訪大社の神長守矢海兵が門外不出の「さなぎ」のご宝鈴を境川のはとりで打ち鳴らしたのはこのときである。 
●今川家では氏輝が若年のため母寿桂尼(今川氏親未亡人)仕置きを取り仕切っていたが、寿桂尼は信虎と諏訪頼満が和睦したことを知ると、甲駿関係改善の必要性を痛感する。
○信虎も寿桂尼の意を察知すると、今川家と親しい岳父大井信達を寿桂尼のもとへ遣わし、信玄の後添えをお願いする。
○公家育ちの寿桂尼の奔走により、話はたちまち京へ伝わり、信玄が三条家の娘(実は後奈良天皇の姫)を迎えることになる。
・天文5年(1536)3月氏輝が殺されたため、婚儀は同年7月になってようやく実現する。
・天文6年(1537)2月に信虎の長女が今川義元夫人として送り込まれると、甲験関係はかつての敵対関係から同盟閑係へと一転する。
・天文9年(1540)11月末に娘の補々を諏訪頼重へ押しつけて有頂天になる。
・天文10年(1541)5月頼重や信州坂城の村上義清と連合して海野平へ侵入、海野棟綱を盟主とする禰津氏ら滋野一族を攻めると、棟網や真田幸隆は関東へ落ちてゆく。
・天文10年(1541)6月4日に意気揚々と帰国し、いよいよ肌が合わない信玄を今川家へ追放して2男信繁を跡目に決めようとした。
・天文10年(1541)6月14日、今川義元と通じている信玄が逆に信虎を追放する。信虎48歳のときである。
○信虎は今川義元が桶狭間で討死すると、孫氏真の一隊を率いて三河の一宮城攻めに参加したものの、遊興にうつつを抜かし、父の弔合戦をしない氏真に愛想をつかし、瀬名駿河守・葛山備中守・朝比姦兵部大夫・三浦与一らと図って氏真を追い出して国を奪い取ろうと画策する。
○これが漏洩して氏真や側近家老三浦右衛門と折り合いが悪くなって遠州掛川の円福寺へ身を寄せる。
・永禄6年(1563)1月19日に京へ赴く。公家の今出川晴季を頼りにしての旅立ちである。それは駿府で生まれた娘お菊が今川義元の世話で時季の側室になっていたからである。
・永禄7年(1564)に信虎は将軍足利義坪の相伴衆となり、桐の紋を賜わるなどして意外に気楽な日々を送る。
・天正元年(1573)9月に、信玄死去の報に接すると33年振りに帰国の途につき、信州高遠まで帰って来る。
○勝頼側近の長坂釣閑斎の思惑により高遠に留め置かれる。
●天正2年(1574)3月5日同地の娘婿禰津神平宅で突然卒去。享年81。
○勝頼は自分が生まれる前に国を追われた信虎、甲州へ再び足を踏み入れることができなかった信虎を哀れみ、信州岩村田の能書寺住持で老齢の北高全祝をお招きして甲府大泉寺で盛大な葬儀を執り行なう。
○菩提寺は曹洞宗の万年山大泉寺。法名は大泉寺殿泰雲存公大庵主。






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最終更新日  2019年03月06日 14時38分43秒
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