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武田信玄伝<元服から自立まで>
1、 元服は、天文五年(1536)の十六歳の時。 《参考》『高白斎記』「三月、武田晴信公元服、十六歳、義晴ノ諱(いみな)ノ晴ノ字ヲ賜」 《参考》『甲陽軍鑑』でもほぼ同様の記述。『軍鑑』はこの時に同時に「信濃守、大膳大夫」を拝領した 《註》大膳大夫の史料での初見は、天文十一年九月二十四日である(「守矢家文書」)。 《註》大膳職は宮中の食膳を司る官職で、その長官である大夫は従四位下が相当位 《参考》確実な史料上では、天文十七年十一月の塩山向岳寺宛の条目の署名に「正四位下源朝臣晴信」とある。 《註》天文十九年十一月二十四日の身延山久遠寺へ奉納した法華経の奥書に「従四位下武田大膳大夫兼信濃守源晴信」とある(『身延町誌』)。 2、大正三年(1914) 從三位が追贈 信玄は、近代になっての大正三年(1914)、大正天皇の即位大典にあたって、歴史上の人物に追贈位があり、その時、民政上の功績が大きいということで、從三位が追贈された。その位記は現在でも信玄を祀る武田神社で所蔵しているが、この時の調査 でも、それまでの位を従四位下としている(渡辺世祐氏『武田信玄の経緯と修養』)。 3、信玄、正室を迎える 天文六年二月、晴信は今川義元の斡旋で、公家三条公頼の二女を正室として迎えている。(三条夫人) この時、晴信の姉が義元に嫁している。(この二つの婚儀は同時進行) 《註》晴信の婚儀については、天文五年七月とする説もある。この時期の義元は家督争い(花倉の乱)の禍中。 4、信玄の初陣 《参考資料》『甲陽軍鑑』(品十八) 天文五年十一月二十一日に、父信虎が信濃佐久郡を攻めた折、海の口城を三十四日間も包囲したが、落城させられなかったものを、殿(しんがり)軍として残った晴信が、十二月二十六日の一夜のうちに急襲して落城させた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019年03月06日 14時41分33秒
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