2314469 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2019年03月06日
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類

井上靖と風林火山

 余りにも寂しい。現在NHKで放映されている「風林火山」の原作者は井上靖である。そして彼の生誕100年を記念して、採り上げたと聞き及んでいた。しかしその周辺は主人公の山本勘助や、大型観光の展開で明け暮れ、肝心の井上靖について触れたり、紹介してものが少ない。井上文学を紐解いてみるのもいい機会だと思われるのに、残念でならない。勘助が一人歩きを始めた。何処へ行くのであろうか。

井上靖が甲斐を訪れた時の文章を紹介したい。
   「井上靖全集より」

早春の甲斐・信濃
 東京に初めて早春らしい陽の射した日、『周と雲と砦』の舞台である甲斐信濃地方に出掛けた。
 甲府に下車し、現在は武田神社の社域になっている武田信玄の居館の跡をみる。ここはいまは甲府市に編入され、古府中町となっているが、併し、市の中心地帯からは半里程隔たっている。信玄が城を築かなかったことは有名な話である。軍鑑に「信玄公御一代甲州四郡の内に城郭をかまへず、堀一重の御館に御座候」とある。信玄の居館跡は、なるほど城とは呼べないこぢんまりした地域でその四周の埠と、更にそれをめぐる内濠だけが残っている。樫、樺の老木が多い。当時の住居の正門は、現在の神社の正門とは違って東方の門がそれである。外濠の周囲には勿論近年植えたものだが、桜樹が多く、四月はさぞ見事であろうと思われる。

 信玄はここに住み、一朝有事の際のために、半里程北方の丘陵に山城を作っている。これも軍産に、「居館より二十町ばかりの地に、石水寺の要害とて山城あり、-塀もかけず候へ共先づ本城の様なるもの也」とある。さして大きい山ではないが、急峻な山である。この山には十二の段階ができて居り、各々百坪位の広さを持ち、現在、所々に石畳が残っている。国志には「本丸の長三治七間、広拾九間二ノ丸、三ノ丸と言ふあり」とあるから、城の樟構だけは備えていたらしい。山頂には井戸があり、馬場の跡も見られる。
 甲府を出て列車で一時間程行くと、韮崎に新府城の址がある。車窓から、信玄の死後勝頼が築いた城址が見える。ここは見るからに要害堅固な山であり、その城址のある山の向うに、雪を戴いた大きい山脈がのしかかるように見えている。武田勝頼は天正九年この城を築いて間もなく翌十年織田軍に攻められ、この城にも拠れなくなり、所謂天目山の悲劇へと逆おとしに突入している。

 併し『風と雲と砦』は、信玄の穀後から長篠の合戦までの三年間に物語を想定している。従って小説の世界では、まだ新府の城が出来ていない頃である。
 現在、小説の中では、俵三蔵がひめ及びその配下と共に天竜川を遡っている。三蔵は天竜川の源まで、遡って行く考えらしい二二蔵は天竜川の流れが、甲斐へ入るか、信濃へ入るか、あるいは三河の方へ折れ曲っているか知らないので、ただやたらに流れに沿って上って行きつつあるが、勿論作者はその水が信濃の諏訪湖から流れ出していることを知っている。尤も天竜川の源は大昔は甲斐に発していたらしいが、戦国時代には今と同じように既に諏訪湖から流れ出していた。その天竜川の流出ロを見たいので、諏訪湖の周囲を自動車で一巡する。湖は、例年より少し早く氷が解けたと言うことで、周囲五里の湖面のどこも氷結していない。水ぬるむと言った色ではなく、まだ黒っぼい冬の水の色ではあるが、どこかに氷の解けた許りの吻とした表情を持っている。岸辺にわかさぎを釣る人の姿が見える。

 天竜川の流出口のある地点は、丁度上諏訪の対岸に当るところで現在は勿論自然に流れ出すことを許さず、水門が造られてあり、釜石水門管理所が、その流出量を調節している。この管理所に於けるただ一人の所員は、午前八時と午後四時の二回、諏訪湖の水位を調べ、水門の鉄の門扉に依って流出量を加減する仕事を受け持っている。訊いてみると、現在の水位は標高(海抜)七五九メートル前後とのこと。その管理所の小さい事務所の窓から見ると、対岸に雪を戴いた八ヶ岳の連峰が見える。
 伊那電鉄で、天竜川に沿って下る。天竜峡までは川に沿っていないが、そこから中部天竜駅までの二時間程は、曲りくねった天竜川の流れが電車の窓から見降ろせる。風景はまさに絶佳である。その間川の両岸は切り立った絶壁をなし、その中腹のところどころに、十軒二十軒の小さい家が危っかしく建てられている。
 伊那の渓谷は、その山の色も、天竜の青黒い流れも、まだ深々と冬の中に睡り込んでいる感じだが、点々と見える梅の白い花だけが、僅かに早春を告げている。 戦国の頃、甲斐から東海地方に出るには、富士川に沿って下るか、でなければ、信濃へ出て、この天竜の渓谷を下ったわけである。野田城の攻撃中、病を発した信玄が、西上の企画を変更し、甲斐に軍を返したのも今頃である。伊那渓谷に点々と嘆いている梅の花は、雄図を翻した武人の眼に、どのように映っていたことであろうか。 (昭和二十八年三月)

私の夢

 風林火山」は昭和二十八年から二十九年にかけて『小説新潮』に連載した小説です・第一回の原稿を渡した時、担当記者のM君が1風林火山」という題名に首をひねりました。いかなることを意味しているか、よく解らないので、小説の題名としては損ではないかということでした。そう言われると、作者の私も自信はありませんでした。しかし、他に適当な題も思いつかないままに二日ほど考えてみようということになりました。
 結局のところ、1風林火山」で押し切ることになりました。風林火山」が新国劇によって最初に上演されたのは、昭和三十二年のことでした。それまで1風林火山」という題名は多少わちつ奮落着がない印象を人に与えていたのではないかと思いますが、これが舞台に取り上げられたことで、すっかり安定したものになり、堂々と世間に通るようになったかと思います。この最初の上演からいつか今日までに十七年の歳月が経過しています。作者の私も十七の年齢を加え、新国劇も亦、劇団として十七の年齢を加えたわけであります。その間に「風林火山」は何回か上演され、その度に、より完全なものとして好評名漬しものの一つになったことは・原作者として何より嬉しいことであります。お陰で風林火山」もすっかり有名になり、その題名に首をひねるような人はなくなってしまいました。こんど何回目かの上演を前にして、それこれ思い合せると、まことに感慨深いものがあります。
風林火山」の主人公は武田信玄の軍師山本勘助であります。山本勘助が史上実在の人物であったかどうかほ甚だ怪しいとされていますが、そうしたことは作者にとってはどうでもいいことであります・その存在に対してさえも甚だ韓晦的である一人の軍師に、私は自分の青春の夢を託しています。勘助は短躯で,指は欠け、眼はすがめで、頗る異相の人物であります。私はこうした山本勘助に生命をかけて高貴なものへ奉仕する精神を注入してみたかったのです。夢と言えば、信玄も作者の夢であり、由布姫も作者の夢であり・作中人物のすべてが作者の夢と言えましょう。それぞれに、まだ若かった私の夢がはいっています。(昭和四十九年五月)

 






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2019年03月06日 14時47分00秒
コメント(0) | コメントを書く


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

10/27(日) メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X