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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年03月06日
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いろいろな本を読んでいると、山梨のことが載っている小冊子や同人誌・季刊誌などに出会う。この「民話」古書店で無料にてただいたものである。失礼ながら私は佐藤結子さんも、相川文利さんも知らない。

民話対談 小さな小さな民話の本 (山梨)
<『民話』1975年「」民話と文学の会発行>
語る人 相川文利
 聞く人 佐藤結子
<割注 一部標準語に>
 「アジアの民話」という小冊子が、山梨具に住むおじいさんの手によって出版された。地方の民話を集め考える会が各地に設けられ、民話に親しむ人々が増えている今日、「アジアの民話」を訳し、ガク刷の小冊子にされた、ということに惹かれて、私は、甲府から真に一時問程、電車に揺られて甲斐岩間の相川さんのお宅を訪ねた。東京では、散りかけた桜も、山梨に入ると満開で、期待していたこぶしの花は見られなかったが、二度日の花見をしながらの旅であった。

 民話にひかれて

佐藤 いつごろから民話を手がけていらっしゃるのですか。
相川 昨年です.
佐藤 え?
相川 私は薬学の方が専門でしたから、理科の先生をしとって、この年まで、民話をやってみようって気はなかった。
佐藤 すると「アジアの民話」を本にされた動機は?
相川 書くことは好きだったね。日記はずっと十年以上続いている。高校の教師をやめてから、百姓や山仕事のあいまに、聴
な時間を生かして何かまとめてみたいって気はあった。
佐藤 それがどうして民話のお仕事と結びついたのですか。
相川 十月二十日の朝日新聞に記事が出ていた。「アジアの民話」って木をユネスコが出すってね、バングラデシュとカンボジアとかね、アジアの民衆が語った民話というんで、やっとこの本を手に入れたけれど、英語の本でした。これなら自分でも訳せると思った。
佐藤 訳すのは大変でしたか。
相川 それほどでもないが、民話は勉残しとらんしね、じいさんばあさんが「むかし、むかし」って話す、そうした語りの調子を生かすには、さて、どうやって書いたもんか見当もつかん。そうしているうち、まもなく、また朝日に記事が出た。民話と文学の会が季刊『民話』を出すって、小さな記事だったけど」目にはいったわけよ。(笑)
佐藤 私たちの雑誌もお役に立ったわけね。
相川 朝日で載せるんだから、そんなにふまじめな雑誌じゃないだろうと思ってね。(笑)それからもうひとつの動機、これも新聞に出とったことだが、八王子に『ふだん記』ってグループがあって、みなで力をかしあって本を出しているってことを知って、さっそく連絡をとったわけ。
佐藤 そこで出版についても見通しがついたわけ。
相川 いや、みんな立派な本を作っている。でも、そのグループの中に、ほら、日本武道館ってあるでしょ。そこにつとめているおばさんが、ガツ版刷りの童話集を出している。三十五頁ほどのものだけど、なるほど、活字印刷によらんでも、自分のやりたいことができる。そう思ってね。そのおばさん式に学んで本を作ることにした。これならそんなに金がかかるわけでもなし、どこからも反対はでんだろう。うちのばあさんにも怒られないですむと思ってね。(笑)

初めての本作り

佐藤 さて、いよいよ本作りが始まるわけですが、どんな点で苦労されましたか。
相川 ひとくちにガリ版刷りといっても、原紙に書くのはむずかしいもんだね。ことに絵が困る、いちいち消すわけにいかん。そこでせがれが応援してくれて、ファックス原紙を買ってくれたんですよ。これなら鉛筆でやれる。
佐藤 ずい分かわいらしい絵がありますね。ほんとにお上手です。
相川 絵の力はないけれど、下手の横好きでもいいからやってみょう思ってね。孫の絵本をひっくり返して、はて、ゾウはどんな姿しとるかって、調べたりさ。(笑)少しでも面白くしようと、そこが苦労だった。
佐藤 印刷ほこの部屋でなさったのですか。
相川 部屋いっぱいちらかしてね。インク使うしね、こんとき、ちよっとばあさんに叱られたな。(芙)「じいさん、なにやってんだ」ってね。(笑)でも、この本は安くできたんですよ。
佐藤 印刷にかかった諸費用も、ちゃんと日記帳にはりつけていらっしゃる。
相川 見てくださいよ、これ。印刷インク代七百円、ファックス原紙二十枚分が千二百円、紙代、ホッチキスなど、製本代の費用などいっさいがっさい(一切合財)しめて六千七百円、これで本が百十部できた。
佐藤 すると一冊が六十円とちよっと。
相川 安くできたでしよう。
佐藤 でも、労力を計算したら大変なもんですね。
相川 そうそう、二ケ月はかかっているからね。だけれど楽しかった。毎日が楽しくてしようがなかった。
佐藤 近ごろ、特に東南アジアのニュースが多いし、こういう時期に、この本が出ることに、とても大きな意義があると思います。それに、民話のあとに、ところどころ解説がありますね。″カラスの民話″(バングラデシュ)の付記を引用させていただきます。
 「国民の二割が飢えている。バングラデシュは、昨年夏、北部地方を襲った大洪水で、深刻な食料不足を来し、人口七千五百万人のうち、約二割が、飢餓線上にあるといわれています。こうした中で、各国からの食糧援助が寄せられていますが、政府要人の援助物資の横流し、配分をめぐる汚職は、日に余るものがあるそうです。悪いカラスが自ら身を焦がし、正直雀が腹一杯食べられる日の近いことを。」また、ベテル・アレカ物語には、「べトコンに米を与えないため…ベトナム人の大切な食糧資源に枯葉剤が、アメリカ軍によってふりかけられた。大量の敷布により耕地の六割が台無しに、子供を殺し、妊婦を流産させ、一九七〇年、アメリカ政府は、『24五Tの非人道性を考慮して、散布を中止する』声明(朝日新聞誌)」と載せ、南ベト
ナムの森林、田畑のどれだけに枯葉剤が散布されたかと、図を示しております。

旗と労働と

相川 人間は労働しなきゃだめですよ。遊んでばかりいたんではだめだね。労働して、休養があって、始めておもしろいんですから。
佐藤 旅もおすきのようですが…。
相川 この前はばあさんと東北の旅をしましたよ。山形へ寄って、紅花染めの作業場を見学したりね。あそこの人は親切だなあ。
佐藤 おひとりで旅をされることもあるのですか。
相川 今度は、薬学関係の同級会が岡山であってね。遠っぱしりするんだから、一晩泊ってすぐ帰るんじゃもったいない。季刊『民話』に奥丹後半島の伝承がでていたでしよう。よし、奥丹後を回ろうと思ってね。
佐藤 民話にはめぐり合えましたか。
相川 いえ、とてもじゃないけどね、五日なり、一週問なり、その土地に腰を落ち着けてなきゃ、集まるものじゃないよ。だいたい、ま、どういう話があるとかね、予備調査くらいのものならいいけどね、なかなか集まるもんじゃない。
佐藤 奥丹後の印象はどうでしたか。
相川 丹後というのは、山あり、海ありで、ちょっと他とは違った風土で、民話のありそうな所だね。あんまり過度に開けていないから、まだまだ民話があるんじゃないですか。
佐藤 しかし、うらやましいですね。各地を旅なさるし、なさるお仕事もいっぱいあって。
相川 とにかく私は「かなづち丈右衛門」の四代目ですからね。
佐藤 かなづち丈右衛門?
相川 私の書いた随筆を読んでみましょうか。これ、うちの御先祖さまの話なんですよ。
佐藤 ぜひ、聞かせてください。
頼川 「かなづち丈右衛門」 丈右衛門さんが、駿河の旅から戻って来た。馬の背につけた叺(かます)を、家の土間にどかっと落した。「ほうら、みんなで勘定だぞよ。」そのどなり声を待ち構えていた家中の者が土間に集まり、夢中で、差に通した穴あき銭に飛びついたそうな。今はない、母の自慢話の一節である。丈右衛門さんは、我家の四代程前の御先祖である。彼は、農が一段落すると、かねて仕入れた農作物の種を叺(かます)に入れ、馬に付け、駿河へ、そこの馴染の農家へ、種を卸すのだった。収穫を終えたところで代金をいただく、こんな彼の商法が、商業の発達していなかった当時、現金の貴い農家に重宝がられ、彼の精根良さとが、帰りの叺一杯の報酬となって、家の者を喜ばせたのであろう。小原庄助さん流の話であろうが、披は人の遊ぶ盆、正月には家におっては、無駄の質とばかり、暇を悼んで、商いの族に出掛けてしまい、嫁ぐ一方の堅物、かなづち丈右衛門、そんなあだ名が、いつしか彼に奉られてしまったそうな。それが今だに我が家系を属する呼名として続いている。
佐藤 家号だけではなく、あだ名が付いているというのは、おもしろいですね。
相川 そんなわけで、払もそうした血を引いているんでしような。幸いにして、祖先が残してくれた山があるんでね。このごろは山の手入れをする人もいなくて、あちこち荒れ放題ですわ。家でぶらぶらしとるのもつまらんから、ひとつ、わしがやぷを開き、道を作ろうと思った。それだけではない、自分の小遣い稼ぎにと、木を切り出して推茸栽培も始めたんですわ。
佐藤 おひとりで始めたのですか?
相川 ひとりでね。親がいい体力を恵んでくれましたんで、去年は二千貫の木に栽培してね、失敗したこともあったが、いまではもうちょっとしたもんだ。おみやげに、うちの椎茸をどっさり持って帰ってください。
佐藤 都会ではいまとても高価なんですよ。
桶川 ちょっとうちの山を見ませんか。これでも多少は世の中のためになっていると思っていますよ。
佐藤 ぜひ、お願いします。

 その後、相川さんの案内で裏山を歩きながら、お話を聞いた。

 裏山は、相川さんが入る以前は、背丈程も雑草が生い茂っていたという。相川さんが山に通って草を刈り、水はけを良くする為に土中にパイプを埋めているうちに、道ができたのであった。人、ひとり通る道が、正に相川さんの後にできたのである。上水道ができた為に、使用されなくなった清水、相川さんは遠くからパイプでその水を引き、仕事の時に使うという。近所の人々は、山に入って手入れをすることがないので、「先生の山」と呼び、「先生の道」と言っているとのこと。時代に逆行しているようで、寂しいと思うこともあった。と言う相川さんは、けれど、年寄りがやらなかったら、と毎日裏山に登る。
 三年前の山火事で焼けてしまった、元の松林にほ、のびるが生え、れんげ草が地面をおおっていた。すると目の前に朽ちかけた小屋が見えてきた。相川さんが建て、そこで泊った事もあるという。私は、小さい頃友達と造った「秘密の小屋」を思い出し、いつまでも冒険心と夢を忘れない相川さんをすばらしいと思った。
 相川さんはドンドン奥へ入り、一軒の家の縁側に腰をおろした。以前は七軒あったという家も今はその家だけになった。親子三人共笛吹川の蛇行や町並を見渡せる山の上が気に入って、ぽつんと暮している。縁先には梅や南天などの木々と産山面の芝桜がきれいに手入れされていた。出て来た家の人の話によると、笹熊もたぬきも縁の下にやって来るという。その家の亡くなったおばあさんが、民話をたくさん知っていらした。とのことで残念だったが、たぬきと笹熊が縁の下でけんかをしているので家の人が床板をはぐってみたら、たぬきが困ったような顔をしていた。というかわいいお話をみやげに、私たちは裏山をひ
と回りして相川さんのお宅に戻った。





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最終更新日  2019年03月06日 14時58分14秒
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