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2019年04月07日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

世紀の大脱走に成功した 甲斐 武居の吃安

 

甲斐侠客伝説の男、武居の吃安(どもやす)

 

吃安は久八の世話で20人ほどの子分を連れ、

 江川太郎左衛門の指揮下で反射炉をつくる作業をやっている。

(『東海遊侠伝』)

 

◇ 参考資料

「ども安」の島抜け(『流人の生活』)

『東海遊侠伝』大隅三好氏著 中沢正氏著 雄山閣刊

 

千に一つといわれる破島の数少ない成功を、見事にやってのけた、いま一つの例が新島にある。講談などでよく出てくる甲州の博徒「ども安」こと武居の安五郎の島抜けである。

 彼の新島流罪は嘉永4年(1851)で、同じ博徒小金井小次郎が三宅島に流されたのより5年早い、40歳のときであった。

 博徒の親分などという者には立派な人間なんかいない。全部よごれて汚い、国定忠冶にしても清水の次郎長にしても五十歩百歩だ。「ども安」などもその点決して人後に落ちる人物ではなかった。天保8年(T837)同じ甲州の博徒紬の文古と身延山で喧嘩して、二人とも捕えられて中追放になり、天保12年(1841)、弘化2年(1845)と引き続き、お上の厄介になって、弘化2年の逮捕では重追放になっている。彼が遠島になる直接の罪科は、追放の身で、多くの子分を引つれ天城山を越えた、お上を恐れぬ不屈な所業となっているが、つまるところは平素の積み重ねた悪業の結果といわねばならない。

 新島に流された安五郎が、いつごろから島抜けを計画したかはっきりしないが、流されてから2年目の嘉永6年(1853)6月、一味に引入れた6人の仲間と一緒に決行している。6人の仲間はいずれも博突渡世の無頼漢ばかりだった。

 その夜は島の年中行事「凧あげ」の前夜、島民はそれに気をとられていた。一味は、先ず三手に分れて、船を奪い、水先案内に漁師を捕え、名主宅を襲って鉄砲を奪う。安五郎は鉄砲の方を受持った。

 彼は名主宅を襲うと、病気で寝ている名主を殺し、子女を傷つけ、納屋に火を放つといった惨虐をあえてし、鉄砲を奪いとったが、急を知った島民に騒ぎ出され、弾丸は手に入れることが、できず、別組が奪った船に飛び乗って沖へ漕きだした。船には島民が二人拉致されていた。

 安五郎の悪運はまだついていた。普通ならこの辺で、舵をとられたり、追手においつかれたりして失敗に終るところだが、彼等は首尾よく海を乗りきって、伊豆半島の網代(あじろ)海岸に到着した。島の漁師を水先案内に拉してき周到さがものをいったのだ。

 一同は船をおり、朝飯の用意にかかった。終夜の重労働に腹も空いていただろう、流人共が食事に夢中になっている際に、二人の漁師は船に飛び乗り死に物狂いで沖へ漕ぎ出した。漁師はたまたま通りかかった回船に救いを求め、韮山の代官所に訴え出る。

 海岸で地団駄を踏んだ悪党どもは、長居は危険と人目に立たないように散り散りに別れて姿を消した。まもなく一味の一人は抽えているが、悪運はまだ安五郎の背中から離れない、彼は再び甲州の地を踏んだ。

 安五郎が遠島後、彼のあとをうけて勢力を張っていたのは黒駒の勝蔵だった。勝蔵は黒駒村の名主の息子で、安五郎のもと子分であった。安五郎は勝蔵のもとに身をよせた。勝蔵には元の親分だ、かくまわないわけにはいかぬ、かくまった。このため勝蔵も島破りと同罪の身となり、流浪の身となるが、それはまだずっと後の事になる。

 安五郎が悪運つきて捕えられたのは文久2年(1862)だから、島を破ってから10年経っている。その間彼は勝蔵のもとで息をひそめて隠れていたかといえば、必ずしもそうでないらしい、講談などによると彼が「武井のども安」として売り出すのはこの期間になっている。島破りの大罪だけでなく、名主まで殺している凶悪犯が、10年間も堂々とて闊歩しているのはおかしい。もともと甲州は甲府勤番支配地、役人そのものが山流人様同でやる気がなく、地理的には山ばかりでかくれ場には事欠かないかもしれないが、それだけでは説明はつかない。しかし、ども安は10年間捕えられないで、堂々と生きている。当時の警察制度の不備を見せつけられるような気がする。

 しかし悪運の尽きる日はまた、文久2年(1862)10月6日、用心棒に雇っていた浪人某の密告で捕えられ、再び娑婆の空気を吸う事ができず、拷門責めで責め殺されてしまった。安五郎が捕えられると、捕吏の手は黒駒の勝蔵にも迫る。彼は甲州を逃げ出し、安五郎を売った浪人を捜し出し叩き斬り、ついでに目明しも殺し、甲、信、駿、遠の間を彷徨し時には山賊まがいの悪事まで働いている。

 当時、駿河では例の清水の次郎長が売出し中で、流浪の勝蔵と対立、やがてそれが荒神山の血闘などに発展するがこれは余談。

(略)けれども博突は天下の御法度、いつも目溢しがあるとは限らない。吃安が、賭博常習犯で捕えられたのは天保10年(↓839)2年後の天保12年には、津向の文吉と喧嘩をやって、吃安は三宅島へ、文吉は八丈島へそれぞれ遠島の刑、つまり両成敗。文吉はそのまま遠島20年、維新の大赦で甲州へ帰ったのだが、吃安は一年足らずで帰ってくる。

 文吉との喧嘩は、石和の代官の支配でなく、韮山の江川代官の手の者だった。弟分になっていた伊豆の大場の久八が、韮山代官に働きかけたものたろう。記録によれば、この後、吃安は久八の世話で20人ほどの子分を連れて、江川太郎左衛門の指揮下で反射炉をつくる作業をやっている。この時、吃女32歳。この後の2、3年が吃安こと武居の中村安五郎の全盛期であったといえる。

 

二度目の遠島

 

それより9年の後、吃安は2度目の遠島になる。この時は新島送りで、その原因というのが二つある。一つは、真偽の儀左衛門という者が、弟分の久八を縄張り上のことから背後から断りつけて重傷を負わせた。これを知った吃安が、石橋山佐奈田神社の高市で儀左衛門を断り殺して弟分の仇を計ったが、小田原で捕えられたという、説。いま一つは、天城の山中を子分たちにおだてられて大名行列の真似をしたために捕えられたとの説、どちらが本当かわからないか、吃安は同年の4月10日に新島へ送られている

 

自分の指揮下で武居一家を使役していたのに、新島へ遠島にした江川太郎左衛門という男もなかなかの食わせ物で、吃安が甲州一円は無論のこと、伊豆・三島・小田原などに縄張りを増やし、目の上の瘤の存在となったために、利用するだけすると、わずかなことを種に遠島にしてしまったものと思われる。江川太郎左衛門の文配下なら助けようと思えば助けられた筈だ。大名行列の真似をしたという説など全くの作り話して、弟分の仇を討つため真鶴の儀左衛門を殺した説のほうが本当であろう。こんどは一年や二年の遠島ではない、新島への遠島は終身刑だ。だから吃安は島抜けを決行するのだが、在島説も異説があり、磯部氏の『吃安親分島抜記」には在島三年説がある。けれども、黒駒勝蔵の捕えられた時の口述書にもあるように、安政3年税が正しいと思われる。

 

甲州八代郡上黒駒村百姓舟嘉兵衛伜 

元第一遊撃隊、池田勝馬、申し候 四十歳

  わたしは百姓嘉兵衛伜で先名は勝蔵といい、

父の許におりましたが、安政3年7月逃げ出し、

竹居村甚兵衛の子分になりました。

同人弟安五郎は賭博を専業としていた罪により流刑になっておりましたが、

同年八月逃げ帰りかくれておりまする間、同人と一緒に交り…。

 

勝蔵が明治4年に捕えられた時の口述書である。前述したように、吃安遠島中の武居一家は、兄の甚兵衛と、後に二代目となった田家の惣太郎が代わって一家を守っていたわけだ。勝蔵が武居一家の子分になったのは二十五歳の時だったのは前記のとおり。そうして吃安はこの時46歳?度々触れるように、吃安の在島説も色々あり、また、島抜けするまでの吃安の行動などは明らかでない。

 けれども勝蔵の口述書は信頼出来ると思われ、彼は、安政5年(1858)と申し立ている。記録によれば、安政正5年6月8日、仲間六人とともに島抜けを決行している。海を渡り甲州竹居村に帰り着く間の2ヵ月をようしたわけだ。吃安らの島抜けについては、磯部氏の『吃安親分島抜記』に詳細に述べられているので省略する。

吃安は、仲間と別れ大石を越えて中芦川に至り、子分の孫兵衛の家で身体を休め、武居村の帰ったとも、伊豆に出て大場の久八の處に囲われた後、下古田に入り、長兵衛に匿われ、一時ではあるけれども河□湖漁師小屋に隠れ住んだともいわれ、どちらも本当にように思える。

 吃安が竹古村に逃げ帰り、百姓屋に転々と移り替わって匿われていることを、石和の代官所は知っていたが、簡単に手が出せない。吃安が島送りになった頃より一家は大きなっていた。八代郡はおろか、既に長兵衛も老境に達し、替って吃安の縄張り内となって吃安の身内が預かっていた。

甲府は無論大きくいえば甲州一円吃安の息のかからぬ博徒はいないといった調子、吃安を捕縛しようとした代官を驚かせた。驚いたのは吃安自身も同様で、隠れ住んでいるとはいえ、空巣が物置に潜んでいるのとはわけが違う。

武居村内を大手を振って、歩き、女の許へ通うといった大胆不敵な生活を続けていたのである。

次郎長が、子分の掛川の政吉に様子を探らせようとして忍ばせたのも、大五郎(法印)が武居村(生まれも育ちもニノ宮村・竹居村の北半里2キロ)から追い出されたのもこの頃の事である。

当時の吃安の身内は、先ず伊豆大庭の久八を弟分に、上井手の態五郎・沢登りの伴兵衛・一つ谷の浅五郎が四天王。黒駒の勝蔵・八代の綱五郎・塩田の大五郎・二階の弥太郎・鴬宿の武兵衛・上芦川の政五郎・岡野係左衛門・八代の伊之吉・八代の大亀(亀太郎)、それに女無宿おりは。云々

 安五郎が悪運つきて捕えられたのは文久2年(1862)だから、島を破ってから10年も経っている。その間彼は勝蔵のもとで息をひそめて隠れていたかといえば、必ずしもそうでないらしい、講談などによると彼が「武井のども安」として売り出すのはこの期間になっている。島破りは大罪だけでなく、名主まで殺している凶悪犯が、10年間も堂々と闘歩しているのはおかしい。もともと甲州は甲府勤番支配地、役人そのものが山流人同様でやる気がなく、地理的には山ばかりでかくれ場には事欠かないかもしれないが、それだけでは説明はつかない。 

しかし、ども安は10年間捕えられないで、堂々と生きている。当時の警察制度の不備を見せつけられるような気がする。

 しかし悪運の尽きる日はまた、文久2年(1862)10月6日、用心棒に雇っていた浪人某の密告で捕えられ、再び娑婆の空気を吸う事ができず、拷門責めで責め殺されてしまった。安五郎が捕えられると、捕吏の手は黒駒の勝蔵にも迫る。彼は甲州を逃げ出し、安五郎を売った浪人を捜しだし、叩き斬り、ついでに目明しも殺し、甲、信、駿、遠の間を彷徨し時には山賊まがいの悪事まで働いている。

 当時、駿河では例の清水の次郎長が売出し中で、流浪の勝蔵と対立、やがてそれが荒神山の血闘などに発展するがこれは余談。

 (略)けれども博突は天下の御法度、いつも目零れがあるとは限らない。吃安が、賭博常習犯で捕えられたのは天保10年(1839)2年後の天保12年には、津向の文吉と喧嘩をやって、吃安は三宅島へ、文吉は八丈島へそれぞれ遠島の刑、つまり両成敗。文吉はそのまま遠島20年、維新の大赦で甲州へ帰ったのだが、吃安は一年足らずで帰ってくる。

 文吉との喧嘩では、石和の代官の支配でなく、韮山の江川代官の手の者だった。弟分になっていた伊豆の大場の久八が、韮山代官に働きかけたものたろう。記録によれば、この後、吃安は久八の世話で20人ほどの子分を連れて、江川太郎左衛門の指揮下で反射炉をつくる作業をやっている。この時、吃女32歳。この後の2、3年が吃安こと竹后の中村安五郎の全盛期であったといえる。

 

二度目の遠島

 それより9年の後、吃安は2度目の遠島になる。この時は新島送りで、その原因というのが二つある。一つは、真偽の儀左衛門という者が、弟分の久八を縄張り上のことから背後から断りつけて重傷を負わせた。これを知った吃安が、石橋山佐奈田神社の高市で儀左衛門を断り殺して弟分の仇を計ったが、小田原にて梯子攻めで捕えられたという、説。いまいま一つは、天城の山中を子分たちにおだてられて大名行列の真似をしたために捕えられたとの説、どちらが本当かわからないか、吃安は同年の4月10日に新島へ送られている。

 

流人証文 覚

新島

その他省略して合計十一人名者新島江流罪被仰付

御老中御文我等方江彼下候間右拾壱人此証文ニ引合セ

御船手警護之方ヨリ党人取之其島江可差置候

無宿安五郎 四十歳

以上

 

本郷の金平(赤鬼の金平)・郡内では下古田の進之助(長兵衛の賭場を吃安から預かる)・鬼神喜之助・八代の角太郎・三河の亀古(雲風の亀古)などか賭場頭。後年勝蔵が平井を頼ったのも、亀吉が吃安の盃を貰いたいからに他ならず、勝蔵と亀古が兄弟分というのは双方上も」吃安の子分だったからである。その他の弟分、子分の持つ身内が甲州から伊豆一円に及び、三下まで加えればその勢力は賓に三千人を越すとまでいわれた。

 島送り以前の吃安の侠気か、甚兵衛・惣太郎二人の人柄か、島抜けをやってのけ、生まれ故郷で堂々と生きている吃安の度量に惚れこみ集まったのか、その辺のことはわからない。云々






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最終更新日  2021年04月27日 15時57分34秒
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