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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年04月07日
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 一般的に歴史は古代から語り継がれていたものは少なく、中央に残された断片的な資料を基にして繋ぎ合わせをして史実に近いものとなる。その歴史資料はその道の研究者の生きた時代背景や政治体制によって大きく内容が異なり、戦時中などは国や主君の為に自らの命を捧げる人物がもてはやされた。人々はそれが全て史実であると思い込み伝承されていく。また時の執行者側によっても史実は歪められることも国の内外を問わず伝えられている。

 近代の戦時中には甲斐の名将武田信玄などは親を離反した者として逆賊として扱っている書物もある。逆に主君の為に命を捧げた信玄の家臣馬場美濃守信房は部下として主君のために戦うものゝ手本として扱われている。

 私の住む峡北地方は古代からの歴史豊かな地であり、それは縄文、弥生、古墳、古代、中世と大地に刻まれている。しかしそれを伝える歴史資料や遺跡それに遺構は少なく、発見や発掘されてもそれが歴史の流れの中で占める位置や価値については言及できていない。少ない歴史資料から歴史研究者はその解明に浸食を忘れて没頭する。しかし危険なのは歴史や文学の世界は封建的であり、史実を伴う新発見があっても過去の自説の誤りを認めようとはしない。封建性の強い環境からは歴史学の発展は少ない。今後歴史に携わる人々は著名な人々の推説や師説であってもそれを乗り越える勇気と機会と場所が必要になる。 

 曖昧な歴史資料を中心に据え私説や仮説の展開を中心に据えているようでは山梨県の歴史は生きた歴史として人々を納得させることはできない。

 私たち一般人の歴史観は研究者の伝える書よりテレビドラマや小説などに大きく影響を受け、時折報道される「最古の○○発見」とか「甲斐歴史感を変える新発見」等の言葉を何処か遠くの国の出来事のように聞き流している。特に身近な人間の歴史大型テレビドラマの与える影響は大きく、史実と思い込んでしまうものである。ドラマの進行と同時に様ざまなグッズや関係商品が並び観光ツア-も飛び交う凄まじい勢いで人々は浮かれてドラマに入り込んで行く。しかしそのドラマが終了すると、その関係する所や関係商品もたちまち姿を消してしまう。また誤った歴史認識だけ残して人々の心の中からも失せていくのである。

 歴史小説などは書く人が誰を主人公にするかで善人も悪人になる。武田信玄でさえ悪人として登場する場合も見られるもので

あり、また主人公であっても作者の視点や観点でどんな人間像にでもなれるものである。

 甲斐の国と深い関わりも持ち、祖先が武川村の出身の柳沢吉保などは時の徳川家光将軍の中核をなし、その実績や時代に於ける最も活躍した人物なのに講談や小説などで悪役として扱われて以来、現在でも評価が低く、それは山梨でも同じである。一旦人々の心に植えつけられた人間像は例え間違いであっても払拭できないのもので、史実に基づいて訴えても変えることは難しく時間がかかるのであり、逆効果の場合もある。

 龍王町篠原出身とされる国学者山懸大弐なども国に背いた人物として地域の懸命な継承努力にも関わらず県内全般に於いてはこれまた評価が低い。

 初代市川団十郎なども父親が今の千葉県市川の出身とも言われ諸説ある中で、「団十郎の祖先は武田家の家臣堀越重蔵で後に江戸に出て団十郎が生まれ、故郷の市川を名乗るとなる」として、団十郎の出身地とする三珠町には歌舞伎記念館が建ち地域案内書や報道は恰も史実の様に伝える。しかしこれとて甲斐の甲斐国志をはじめ古書には掲載されていない。

 あの松尾芭蕉が師と仰ぐ山口素堂などは甲斐国志編纂者の偏見に満ちた説が史実となって歪められた素堂像を今も伝えている。筆者は素堂に関する新たな史実を次から次へと提示し、資料公開もしてきたが、研究者は過去の誤った素堂像から脱却することはない。誰が言ったとか言わなかったかの問題ではなく、史料の確かさが史実を伝えることの再確認をしたい。

 一度できあがった定説や人間像を覆す事は難しいもので、真実は明確に違っているにも関わらず仮説が定説化している。

 中高年になると歴史が身近になり、研究に手を染め色々な勉強会や見学会に参加する人々が増えてくる。しかし『国志』や研究書からだけでは本当の歴史は見えてこないものである。何事も探究しようと志したら自らの足で稼ぐことが肝要である。 今の情報社会では山梨県人が知らない「山梨の歴史」が全国各地に眠っている。歴史研究者の書はあくまでも参考資料として見るべきである。最近の傾向として他人の研究資料を中心にして展開する歴史本が多い。全てを否定するつもりはないが、二番三番煎じの感が強く、インテリア本として開かれることが少なく、古書店に並ぶことになる。

 歴史解明は、研究者の飽くなき探究心と有効な資料の蓄積から方向性が導かれるものである。

 歴史は広角度の調査が必要なのである。山梨県郡内地方の宮下家に残存する『宮下文書』などは歴史学者は偽書扱いで見向きもしないが読んで見れば興味が尽きない内容である。偽書を完成するには通常の歴史研究者より探究してはじめて成し遂げることができるのであり、中には一片の真実が潜んでいる場合もあるのではなかろうか。

 研究者の中では『甲陽軍艦』の扱いもさまざまであり、内容を部分的には否定しながら結局は引用して論を展開している。偽書扱いをしても、他に信玄や武田三代の事蹟を伝える書も少なく結局の所は引用せざるをえないのである。山本勘助にしても歴史上の人物か、創作の人物かを決める史料は少なく。山本勘助の居ない信玄の戦いとはどんな戦いであったのだろうか。

 さて今回は峡北地方の古代の中で最も文献資料が充実している、甲斐の御牧(勅使御牧)について資料を基にした調査結果を述べてみたい。これまで繰り返されてきた定説が正しいかどうかは読者に判断を委ねたい。

 

 一、甲斐の御牧・馬について

 

 古代巨麻(摩)郡は現在北巨摩、南巨摩、中巨摩に継承され、その面積は甲府地域の一部を含む広大な地域であった。この巨麻(巨摩)地域に古代の天皇の直轄の御牧があり、全国では甲斐(三カ所)、信濃(十七カ所)、武蔵(四カ所)、上野(九カ所)、毎年献上する貢馬(くめ)数は甲斐国六十匹(柏前牧・真衣野牧三十、穂坂牧三十)、信濃国(八十匹)、武蔵国(五十匹)、上野国(五十匹)が在った。

 単純に一御牧の貢馬数は、信濃一牧あたり四、七匹。武蔵は十二、五匹。上野は五、六匹。甲斐は二十匹と一御牧あたりの貢馬数は他を圧倒する多さである。それだけ一御牧の飼育地域も広大で養育の技術も充実していたことになる。後に述べるが勅使牧の運営が如何に膨大な人力と財力それに広大な適地を要したかはあまり伝わってはいない。 甲斐の駒はその始め「甲斐の黒駒」と呼ばれ、中央に於いても特に有名でそれを示す資料もある。日本書紀の雄略天皇十三年(469)の項に《罪に問われた猪名部真根が処刑される寸前に赦免の勅命が下り死者が駿馬に乗り駆けつけ、あやうく命を救われた》との記載があり、その駿馬こそ甲斐の黒駒であったのである。

   

ぬば玉の甲斐の黒駒鞍きせば命しまなし甲斐の黒駒

 

古記が正しければ、雄略天皇十三年(469)に既に甲斐の黒駒の知名度は中央に於いて高かったことは、五世紀前半頃から他国を圧倒して甲斐に優秀な駒が産出されていたことを物語るものである。

 雄略天皇九年(465)には河内国において換馬の伝説として「赤駿( あかこま )の騎れる者に逢う云々」とあり、この時代には既に中央に於て乗馬の習慣があったことが推察できる。

 駒(馬)のことは神話にも登場していて『古事記』に須佐之男命(スサノウノミコト)が天照大御神(アマテラスオオミカミ)に対して「天の斑駒( あかこま)を逆剥ぎに剥ぎて云々」とあるが、『魏志倭人伝』には「その地(倭)には牛馬虎豹羊鵲はいない」とあり、馬種については信濃国望月の大伴神社注進状に「須佐之男命が龍馬に乗り諸国を巡行して信濃国に到り、蒼生の往々住むべき処をご覧になって、これを経営し給いて乗り給える駒を遺置きて天下の駒の種とする云々」と見える。また牛馬は生け贄として神前に捧げる習慣もあった。月夜見尊は馬関係者の神として祀られていて、主人に対して殉死の習慣もあり、後に埴馬として墳墓に供えられた。人が馬に乗る習慣は『古事記』に大国主命が手を鞍にかけ足を鐙にかけたとの記述が見え、『日本馬政史』には『筑後風土記』を引いて「天津神の時既に馬に乗りたることありにしや」とある。

 山梨県内各地の古墳遺跡からも埴馬や馬具などの副葬物が出土されている。(本文参考)古墳中には高価な副葬品も発見されているが、有数な古墳のほとんどが盗掘にあっている。また破壊され畑や宅地になってしまった古墳も数知れない。

 古墳に祀られていた人物については史料がなく判明しない状況であるが、古墳の副葬品からは飼馬及び乗馬の習慣があったことが理解できる。東八代郡中道町下曽根字石清水のかんかん塚(前期円墳)からは本県最古の馬具轡(くつわ)・鐙が出土している。また山梨県最古の古墳東八代郡豊富村大鳥居の王塚古墳(前方後円墳)からは馬形埴輪が出土している。また『甲斐国志』には米倉山の土居原の塚から異常なる馬具を得たとある。

 甲府市千塚町三丁目の加牟那塚古墳(円墳)からは馬形埴輪が出土している。また最近では四世紀前半とされる馬歯の発見もあり、神事に奉納されたと思われる一体分の馬骨の発見や、平城京などから出土した木簡からは、甲斐国内だけでなく中央の厩舎で馬の世話に従事していた甲斐の人々が居たことが判明してきた。

 甲斐の三御牧があったとされる北巨摩地方の古墳は少なく、従って馬具などの出土も少ない。五世紀には北巨摩地方より、古墳が築かれた甲府盆地を中心とした周囲の丘陵地を含む地域周辺に於いて牧場があり飼育されていたと考えることもできて、古代の牧場は生活環境や飼育環境の変化により、甲斐国内各地で展開されていたと思われ、現存する地名との比定を先行する解明は無理が生じているのが実態である。

 

 二、甲斐の勅使牧(御牧)

 

 甲斐、信濃、武蔵、上野に設けられた御牧は天皇直轄の勅使牧である。延喜式によると牧には勅使牧の他に近都牧、諸国牛馬牧の三種に区別され、勅使牧は近都牧と同様左右馬寮の所管である。

  『延喜式』…醍醐天皇の勅を受けた藤原時平(時平死後弟忠平が任を得る、紀長谷雄、三浦清行らが延喜五年(905)年に着手して三十二年後の延長五年(927)に完成して康保四年(967)に施行となる 

 甲斐の三御牧とは諸本に穂坂牧-現在の韮崎市穂坂周辺、柏前牧-現在の高根町念場ケ原周辺、真衣野牧-現在の武川村周辺とするのが定説になっている比定地になっているが、長野県の望月牧のように牧柵(土を盛り上げた柵)などの遺構は見られず、残された字地名も少ない。こうした比定は『国志』が基で、後世の歴史学者は未だにこの説から抜け出せないでいる。

 最近北巨摩郡明野村で「小笠原牧」の遺構であるかのような発表があったが、不思議でならない。それは未だに「小笠原」地名さえその所在地の結論もなく、しかも「小笠原牧」・「後院牧」についても史料不足で解明されていない現在、恰もその遺構が「小笠原牧」であるような印象を与えたことは、歌に詠まれ地名やたった一行の史料文献を遺構に結びつけての今回の発表は今後の研究の足枷になる可能性もあり、穂坂・真衣野・柏前の三御牧と歌に詠まれた逸見牧・小笠原小野などの解明にも支障をきたす問題でもあり、現在では私説として捉えておく内容でもある。

 さて先述したように『日本書紀』雄略天皇十三年(469)九月の項に

「ぬば玉の甲斐の黒駒鞍着せば 命死なまし甲斐の黒駒」(詳細は本文)

と掲載され、さらに『聖徳太子伝暦』には推古天皇六年(598)に太子が全国から善馬を求めた。その中で甲斐から献上された黒駒を舎人調仕麿に命じて調教し、空を駆けて信濃国を巡り還した。という。

これらに見られるように、甲斐の馬は当時既に優れた馬として中央で認識されていたことが理解できる。確実な史料からは甲斐三御牧の馬の記載の初見は穂坂牧で、天皇に献上する御馬(貢馬・くめ)に関する文献に見え、それは天長六年(829)のことである。既に雄略天皇十三年(469)から三百六十年が経過している。真衣野と柏前牧は一緒の貢馬が多く見られるがそれに言及する研究者は少ないが史料文献からは両者の関係が明確に浮かび上がっている。

 一般的には両牧が近接していることが考えられるが、定説となっている武川村牧ノ原の真衣野牧と高根町の樫山、念場ケ原に否定される柏前牧は相当の距離がある。比定地の定説の中で、穂坂牧(一部?)は現在の韮崎市穂坂で間違いないと思われるが、それを示す遺跡や遺構は現れていない。いかに広大な土地があっても本文で紹介する諸施設遺構や食料や水の確保遺構それに馬の骨などの遺物・馬具の存在が解明されないと確実な比定はできない。

 現在、柏前牧と真衣野牧についてはその所在は不詳であり、高根町と武川村に比定する資料価値は希薄であり、今後の研究課題である。『国志』の説明も中央文献中心でしかも真衣野牧の歌や美豆の御牧(本文参照)は間違って解釈している。真衣野牧と柏前牧の貢馬の文献初見は承平六年(936)で穂坂牧から遅れること百七年経過してのことである。真衣野牧については、葛原親王が賜った空閑地甲斐「馬相野」と結びつけたり、白根町有野と否定したりする説があるがその根拠は乏しく不承である。さらに武田牧に継承れたとの説もあるが、私論、推論の範疇であり、こうした論拠は史実から遠ざかる要因ともなっている。

 関東の四牧から貢馬される馬は毎年国司か牧監が牧に赴き牧馬に検印して牧帳に記し、満四才以上の貢上用の上質のものを選び、十カ月間調教して明年八月に貢上する。貢上される馬以外は駅馬や伝馬に充てる。貢上のために京に進める宮廷で天皇が御覧することを「駒牽」といい、一時期は甲斐の御牧の貢馬・駒牽が信濃望月牧等の他の諸牧を圧倒した。

 駒牽の日時は穂坂牧は八月十七日、真衣野・柏前両牧は八月七日と定められたが、柏前牧は単独の貢馬はなく真衣野牧と必ず一緒に貢馬された。真衣野牧は単独の貢馬がある。

 御馬は天皇が出席して駒牽の行事が行なわれる。御牧で飼育養育された御馬は天皇と多くの役人の前で駒牽され、その後それぞれの部署や官人に分け与えられる。

 貢馬に関連して興味深い記事がある。それは『日本書紀』の推古天皇六年四月に甲斐国より「黒身ニシテ白髭尾ナリ云々」とあり、『聖徳太子伝略』には推古天皇六年(597)四月に「甲斐国より馬が貢上された。黒身で四脚は白毛であった。太子はこの馬を舎人調子麿に命じて飼育させ秋九月に太子はその黒駒に乗り富士山の頂上に登り、それより信濃に到った云々」とある。この話は後世に於いて黒駒の牧場の所在地の根拠や地名比定及び神社仏閣の由緒に利用されている。『聖徳太子伝略』の真偽はともかく甲斐の黒駒のその速さは中央では有名であったことである。

 天武天皇元年(672)には壬申の乱が起きた。この時将軍大伴連吹負の配下甲斐の勇者(名称不詳)が大海人皇子軍に参戦し、活躍している。大伴連吹負は『古代豪族系図集覧』によれば大伴武日-武持-佐彦-山前-金村の子で、金村には甲斐国山梨評山前邑出身の磐や任那救援将軍の狭手彦それに新羅征討将軍の昨などがいて、吹負はこの昨の子とある。

 また金村を祖とする磐の一族には山梨郡少領、主帳、八代郡大領など輩出している名門である。

 天平九年(737)には甲斐国御馬部領使、山梨郡散事小長谷部麻佐が駿河国六郡で食料の官給を受けた旨が記されている。 

 (『正倉院文書、天平十年駿河正税帳』による』)                                   

(『古代豪族系図集覧』によれば小長谷部麻佐は甲斐国造の塩海宿禰を祖とする壬生倉毘古の子)天長四年(827)には太政官符に「甲斐国ニ牧監ヲ置クノ事」の事として当時甲斐御牧の馬数は千余匹であると記している。 ここまでに甲斐の駒や御牧と比定地との関連について触れて見たが、奥行きのないものである。例えば武川村の牧ノ原(牧野原)と真衣野の語句類似と真衣郷(比定地不明)結びつけてあたかも古代御牧の一つが現在の武川村牧ノ原に所在したと言う定説もうなづけない。牧ノ原の地名の発祥は古代ではなく中世以降の可能性もあり、真衣郷を武川村周辺に比定しているがこれさえ何等根拠のあるものではない。約七百年から八百年間存在したと思われる甲斐の牧、その史料の希薄さや失われ損なわれた遺跡の多さが曖昧な定説を生む土壌を育ってしまったのか、現在は歴史と言い伝えの差さえ明確にはできない。

 曖昧な歴史は『国志』から始まると言ったら編纂者を冒涜することになり得るのであろうか。否そうではあるまい。当時の編纂の労苦は察するに余りある。敬服する。問題なのは『国志』の記載を安易に引用してきた人々の責任である。その都度多少振り返って調べて史実が解かる事を、引用のみの文書転がしを続けてきた結果が今日である。

 『国志』云う、

「真衣、萬木乃と訓す。又用 真木野字 古牧馬所今有牧ノ原 、又伴余戸 惣名武川は淳川なり。云々」。

『国志』の記載内容は当時としてはよく調べてある。その正確さは見るには『国志』以前や以後の文献資料を照らし合わせてその結果『国志』の記載と合えば概ね正しいと思われるが、如何に『国志』といえども一書の記載内容を持って史実とは言えず、甲斐の歴史を探究する者が『国志』から抜け出せないのは情けない話である。

 私には師と仰ぐ歴史研究者も同好の人も居ない。それは私が敢えて求めた歴史探究の足枷になると思われたからである。





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最終更新日  2021年04月27日 15時56分59秒
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