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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年04月07日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

山梨県歴史講座 資料、中世戦国・勝沼氏館址とは何か

『甲州人人』山本寿々雄氏著(日本考古学協会埋文委員)

 

 山梨大学の磯貝正義氏が「山梨の郷土史資料集」という山梨県教育センター社会再教育研究室の方々の共同研究によって出版された(飯窪務・金丸広男・望月忠男・弦間耕一編)資料集の序文で次のようにのべておられることは、とりもなおさず、歴史事実の実の尊重という発想に外ならないのではあるまいか。

 先ず、歴史を考える視点としてかかげれば、即ち「ものをいうなら証拠を示せという言葉があるが、社会科こそ証拠物件 資料に立脚した教科であるといえる。以下略」である。

 短い引用で恐縮であるが、敢えて頭にかかげた。

 さて、筆者はかって若い頃.今井登志喜教授が史学概論の講義で、ランチの言った言葉を引用しつつ「歴史は鏡の如くに客観的でなくてはならない」とされた言葉が今も強烈に焼きついているのである。そして、田中義成博士の甲陽軍鑑考にふれ、その信憑性について問われていたことも。

 ところで、考古学的手法を用いての勝沼五郎地発掘による実状の把握は、或はその判断というものは、常に厳正でなくてはならないところであり、今さらいうまでもなく、古記録・史料を授用し得ない、この勝沼五郎館論については尚更であろうかと思う。

 勝沼氏館発掘調査団が指導的役割をもって指察をした福井県一乗谷朝倉氏館について、同視察団長をつとめた野沢昌康氏の語るとされた、山梨日日新聞昭和四十九年五月十八日付では、いとも早々具体的提示もされずに決定的な結論を出しているということについても若干ふれなければならないと思うのである。

 即ち、結論としては次のとおりである。

  1. 羨のちがいはあるが、朝倉氏と勝沼氏の館跡は中世の同時代の遺跡である、とされた。 

  2. 朝倉氏の場合味室町文化の影響を受けて優雅だが、戦国の居館としての構えは勝沼氏館の方が現実的である。と言及している点においてである。

 そこで、では一体中世の同時代の遺跡であるという論拠は具体的に何に求められておられるのであろうかという点と、②でいう戦国の居館としての構えが現実的であるという表現の具体性のことなのである。

 次に、今一つの例を紹介しておこう。

第五回史跡めぐり(郷土史講座シリーズ)において、武田信玄の武田館の御鍬立は永正十六年八月で(一五一九年)十二月には石和妙館を引き払って府中に移った。勝沼の館というのはこの前後に構築されたと推定され、永録三年まで(一五六〇年)二代四十二年間住んでいたことになるというものである。

 では、その信憑性のあるよりどころとは何であるのだろうかということであり、実像として多くの県民各位に納得しうるのだろうかと申し上げたい。

 ところで、ここに開館のA区・B区の発掘現場の終了時点とそれに近い時点の写真を先ずかかげてみることにしよう。

 さて、この空間は、そして一体この石組?は何であるのだろうかとする読者サイドに立って冷静に観察してみることである。もっともこの写真と共に重要な意味をもつものに、県教育育会発行の勝沼氏館跡調査概報所収の、第十一図A区実測図、第十二図B区実測図と称する図面が公刊されているが、写真との対比である。

 基本的なことだが、作図に問題はなかったろうか。即ち、よく詳細に観察して欲しい。この実況を平面のプランに表現することの適否と論拠を、先ずあげなければならない。具体的に示してみよう。

 配石のアンバラである。

  1. のことは同一水準線に表現されている配石があるのだろうかということ。

  2. 石が浮いているという点についてはどうだろうか、くり石という構造上の石はなかったのかどうか。

  3. たして館地としての配石が充分構造物の土台石としての効用があるのだろうかということの三点にしぼってみてどうだろうか。本当にすべでの配石が人為的なのだろうか。

県報告書に見られる平面図と実況が正しく読了されるのに相応しい内容のものであるのかという大きな疑問点であり、果たしてすべてが手の加わった配石なのだろうか?

勿論構造物としての居館である以上は力学的にもその納得性があるのでなければならないことはいうまでもなく、さらに実際問題として空間における尺の基準といったものが整のっていなければなりますまい。

関係者自身引用される朝倉館の場合は、年代の前後により一間が曲尺の六尺二寸、或は六尺二寸五分とにわかれている点があげられる。これは空間におけるルールなのである。

 ところで、本県の場合も例えば武田氏館の古絵図(武田神社蔵)の寛永年間(一六二四年~一六四三年)に見られる掘南北百二間は、丁度曲尺の六尺二寸五分に当ることの事実に照らしあわせて、重要な意味をもっている。もし、曲尺の六尺二寸五分あるいは六尺二寸のいずれかの遺制が当然考慮されてよいという見解に立てば、当然この県報告の実測図に引用してみると合致するどころか、配石のバランスが崩壊してしまう。

 つまり、曲尺の一間六尺二寸~六尺二寸五分には相当し得ないという事実があげられるとともに、どの配石と、どの配石が、どういう関係にあって、どのような構築物が存在していたのであるのかということに対する説得性が得られない点であろう。

一体何のための発掘調査であり、館という構築物件に対する科学的な裏付さえ出来得ないとすれば、では何物なのであろうか?である。問題は、本当に礎石としての配石なのだろうかという点である。

 その帰結として、自ら学界が骨定するまで、独断的な結論即ち中世とか構えが現実的とかの表現はすべきではなかったのではないか。にもかかわらず、朝倉氏館と勝沼氏館とは中世の同時代の遺跡とは、何を対比されてのことなのだろうか。或は戦国の居館としての構えは勝沼氏の方が現実的とは一体何物を指しての発言なのであろうか。構えが現実とは何なのであるのだろうか。或は勝沼五郎館の構築か本当に永正十六年八月~十二月の前後にこの場所につくられたのであろうか。

では、その柊伴的な証拠とは、という理詰にならざるを得ないのである。全く戦記録の甲陽軍艦のその域を一歩も出ていない。

 さて、ひるがえって、若い県内の研究者と自称する人々の、発掘しさえすれば学問が成立つものだとする安易な考え方に、先ずは警鐘を鳴らしておきたいと思う。勿論、考古今は発掘調査と深いかかわりあいはあるだろう。だがしかし、掘ることにより、発掘することにより学問があるわけではない。発掘することは、破壊をするのだということである。

今回の勝沼五郎の館の場合は公費を出させて埋蔵されている状態を破壊してしまったという認識である。

 一つの遺構を究明し得ずして、次から次に掘るものとしたら、どうだろうか。興味本位に、或はマスコミがとりあげてくれるから掘るというのであれば、「何をかいわんや」であろう。学問における自身の主体生を堅持してこそ、許されるべきものであったろう。

 イギリスの考古学者ペトリー博士は、現代人が遺跡や遺物を破壊することは過去への罪悪であるとともに、未来への罪悪であるとのべている。

県が委嘱した勝沼氏館調査団の本遺跡に対する対応とともに、掘ることが保存であり、研究ではないということを再認識して欲しいものである。

筆者自体.絶えず仮説のための理論化と実証研究への相互検証の必要性を認めている一人である。そこにこそ考古学が学問として存在する意義を見出している今日である。

(注)

ちなみに本論で空間の基準,つまり、尺についてのべた曲尺の用法は、すでに江戸期とするは定説どおりであるが、県内の構造物についてみると、すでにのべているように戦国期武田館の堀の東西間曲尺一間六尺二寸五分とならんで、中巨摩郡竜王町慈照寺法堂(桃山期再建)の、一間曲尺六尺二寸五分はよく知られているところだ。

 江戸期のものとしては、曲尺一間六尺は

東八代郡一宮町慈眼寺本堂

塩山市雲峰寺庫裏

住宅では東山梨郡牧丘町の西川家住宅が曲尺一間六尺で、

さらに塩山市の高野家住宅も同様曲尺一間六尺

西八代郡下部町の門酉家住宅も曲尺一間六尺である。

  

福井の一乗谷朝倉館では、前後二回にあたる造営について前期のものは曲尺一間六尺二寸、後期のものは曲尺一間六尺二寸五分である。勝沼五郎館とする寸法においてどれだけのものが得られたのであろうか。

すでにのべているように、曲尺一間六尺とすれば中世に曲尺一間六尺の用法があったとする論拠も併せ考慮実証されなければならない。勝沼五郎館に関するのみは朝倉館とは異なっていいのだとするなら曲尺一間六尺を用いていたのであるという証拠を諸案件の物証と共に示されなければならないことは言うに及ばない。

 中世以降、尺の用法については不統一であった事は事実であっても、この際改めて江戸期における享保尺を含めて曲尺を考えてみるべきではないだろうか。

 勝沼五郎館跡があってはいけない、といっているのではない。実在こそ肝要であり、理由なき、科学的根拠のない、つくりあげのものであってはならないというのである。考古学における「山本仮説」を打破ってこそ、そこに「実像の勝沼五郎館」があるのではあるまいか。






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最終更新日  2021年04月27日 14時01分36秒
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