カテゴリ:山梨の歴史資料室
「恩賜の県有林」のことども 甲府城 謝恩塔
<「明治・大正・昭和の郷土歴史」手塚寿夫氏・清水威氏著>
甲府城跡に高くそびえている白い碑石の由来を知らない人が多くなってきている.数年前に、作曲家として知られる高木東六が「あれはなにか」と若い人にたずねたら、その著者は「水晶の宣伝塔だ」と教えたという。 明治40年(1907)と43年の大水事でみる影もなく荒廃した山梨県を、一日も早く復興させたいという県民の悲願が実って、44年3月11日、御料林約29万町歩(ヘクタール)が山梨県の財産として払下げになった。そこで、御料林の下賜をすえながく感謝し、その恩愛を語り伝えていくことを目的に、大正6年(1917)7月の県会の議決をへて、5年の歳月と総工費9万9528円を蜃やし、甲府城跡に巨大な謝恩塔が建設された。 県内の小中学校では3月1日恩賜林記念日には授業を休み、校長が「御沙汰書」を捧読したあと、四〇年の水害が激甚だったこと、皇室御料林が下賜されたこと、そして山を治め水を治めることの大切さを講話した。この行事は敗戦までつづいていた。また当日は、県内全戸が国旗を掲揚して大恩に報いるよう、県知事から通達されていた。 ----山崩(く)え水は逆巻きて うまし田畑を押し流し うつろい変る国原や 茂る民事色あせぬ----
戦前の教育をうけた人たちは、なつかしくよみがえってくる、恩賜林記念日の歌である。
大正11年9月27日の「山梨日日新聞」は、謝恩塔が完成し除幕式が行われたことを報じたが、同時に「種々なる非難もあったが、甲府城頭の一偉観たるに相違ない」と書き、謝恩塔建設には県民がかなり批判的であったことを暗示している。明治14年に入会地が没収されたのが原因で山が荒れ、40年には死者232人におよぶ大水害をひきおこしたのだから、30年後に入会地をもどしてもらったからといって、記念碑を立てることは疑問だという声なき声が県民のあいだには多かったのである。 明治六年公布の地租改正にともなって、山梨県内の山林は三分の二が官有林に編入されてしまい、さらに22年には、そっくり御料林に移管されて、立木・マキなどの払下げが制限されてしまった。おれたちの山だと思って生きてきた農民ははげしく抵抗し、盗伐・乱伐・山火事があいつぎ、山が荒廃したのが大水事の原因であった。そのため対策に頭を痛めた当局は、全国にその類例をみない「林野警察」を設置し、取締りにあたるなど、苦労しなければならなかった。 さて、県有財産になった恩賜林は県が管理し、保護の責任は入会農民にまかせて、収益の一部を地元に還元するという、農民を優先する管理方針を出し、現在まで育成がすすめられてきている.しかし、入会権問題は複雑で微妙である。北富士では、現在でも入会権をめぐって揺れ動いている。お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月27日 13時50分47秒
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