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2019年04月07日
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カテゴリ:飯田蛇笏の部屋

山梨県の文学 俳壇人生劇場 出色の二代目飯田龍太

 

(『俳句』昭和32年11月号掲載)一部加筆

 

俳句は庶民の芸術だといわれて来た。俳句を生活の資としている作家はごく稀で、多くは他に生業を持ちながら、俳句を愛し、この一筋にすがって来た。この「俳壇人生劇場」に登場された人々は、この劇場の主役であり、脇役であるとは別に、この一年さまざまな人生の起伏図を自ら描いた。悲しみと歓びの歳月もまた、更に作家としての大きな飛躍の道程であるだろう。我々はそれを期待すること切である。

 

出色の二代目 飯田龍太

 

 俳壇にも二代目はおおいが、彼のごときは出色の二代目だ。初代.すなわち飯田蛇笏翁が、あまりにも大きな存在すぎるので、ひとはとかく色眼鏡でみたがる。しかし、蛇笏翁の庇護というものは、俳壇的にはなかった。

 彼は自力で堂々と俳壇に押し出てきた。蛇笏翁は、明治・大正・昭和俳壇の文字通りの第一人者だ。鬼城がどうの、石鼎がどうの、水巴がどうのといっても、翁にはおよばない。ある意味では、虎子翁をさえ凌ぐ。その御曹子の龍太が、偉大な父親の蔭にかすんでしまわないで、俳壇におけるユニークな存在として、最近とみに名をあげてきたのは、彼自身の資質にもよるだろうが、その負けずぎらいの不断の精進が実をむすんだためと考えられる。

 蛇笏翁の頑張りリズムは、俳壇でも有名なものだ。頑張りに次ぐ頑張り、唇をきっと噛みしめて、一生を歩んできたひとである。常に弓の絃のように、ぴんと張って、瞬時といえどもたるむとてない翁の緊張は、見事な美しさで今日までつづいた。人間が必死になって、芸術の呻に奉仕する美しさは比類のないものだ。

 飯田竜太も父ゆずりの頑張り屋である。彼は若いに似あわず、血のにじむような努力精進を蔭でしていながら、それをうわべに現わさない。この点一寸気がかりだ。

 偉大な父親にたいする劣等感からぬけだすため、小蛇笏になるまいとする苦労、それらを彼は積みかさねて現代俳句協會賞を得る作家にまで生長した。

 彼の場合、現代俳句協会賞を得るのはおそきに失した。賞を得たためにはくがついたということはない。彼は何年か前に山梨文化賞を得ている。作家としての活動の頂点は何も去年だけではない。技がうれしがったという話は、きいていないが、だれよりも蛇笏翁がよろこんだということだ。

 

土に生きる決意

飯田家は、甲府市外・堺川村の豪農。山梨県下でも有数の名家で連綿とつづいた家柄だ。何十代目かに変り種が現われた。彼は青雲の志をいだいて東京に出た。その志は文名をあげるにあつた。

 だが、彼は「長子家去るすべもなし」の長子であった。万斛の恨みをのんで故郷に戻って来た。この若き日の蛇笏翁の悲しい運命が、そのまま今日の龍太の姿だ。世が世なら彼は龍太家を継ぐ必要はなかったのだ。彼が国学院に学んだのも志が文学にあったからで、順調に行ったら、彼は今ごろ作家かそうでなければ国文学者として世に立っていたであろう。

 戦争は飯田家の後を継ぐ長子を、つづいて次子をうばい去った、龍太はたしか四番目の筈だから三人の兄をうしなっていることになる。戦争後は帰農した。農地解放は、豪農飯田家の運命を一変させた。龍太は、みずから鋤鍬を取って野良仕事に精出した。彼が頑張り屋である面目の一端が遺憾なく現われたのはこの時である。彼は黙々として、みずからにあたえられた苛烈な運命を甘受した。

 文學への志を絶って家のために犠牲になった愛児龍太の姿は蛇笏翁の瞳に、この上なくいたましく映った。何十年か前のそれは自分の姿であった。翁には龍太がむごくて、むごくてしかたがない。馴れぬ百姓仕事に華奢な龍太の手は荒れて傷つき、みるに忍びないものがあった。

 だが、この体験は龍太にかけがえのない貴重なものをあたえた。土と共に生きるという不退転の決意である。

 日本が復興するにつれて飯田家にも春がよみがえった。豪農の、の地力が現われてきたのだ。彼はまもなく甲府の図書館に勤めることになった。本を読むひまも、俳句をつくるひまもできた。彼はあたかも学土が慈雨を吸うように、貪欲に文学的栄養を摂取した。現在は二児の父、去年女児を失うという悲運に逢ったが家庭的にはめぐまれている。甲府図書館を辞して、舵笏翁の身辺をはなれず「雲母」の編集に従事している。

 

正統派罷通る

 

こうみてくると、名門の御曹子の彼が全然温室育ちでないことがわかるだろう。御曹子である彼にも、いたるところに陥穿は待ちかまえている。彼にたいしてはもちろん、父の蛇笏翁の前で、口をきわめて、彼をほめそやすものはおおいが、耳に痛い苦言を呈するものはない。いくら聡明な人間でも、始終調子のいいことばかりいわれていると、何かの拍子に、そうなのかなあと思いかねない。これは本人にとって、予期せぬ不幸だ。

出版書肆乃経営者、というよりも俳壇横紙破りの一人である角川氏は、彼の國學院の先輩だが、一夜、山廬をおとずれて後輩の龍太をぼろくそにやっつけた。もちろん愛情のこもった苦言だったらしいのだが、それをいちばんよろこんだのはほかならぬ蛇笏翁だったという。やっつけられて些かくさっている龍太、そばでうれしそうににこにこ瞳を輝やかして、もっとやってくれといわんばかりに膝をのりだしている蛇笏翁。まことにこれは微笑ましい情景だ。

 角川氏(に限らないが)のような先輩、蛇笏のような父親をもった龍太の道が、蛇笏氏とはおのずから違った方向をとることは当然だ。

 龍太は、ひじように人から愛されている。

「雲母」一家の中ではいうまでもないが、俳壇的にも被くらい好感を抱かれている青年はすくない。かなり毒舌も達者だし、また気のきいた逆説も吐く。それらが彼の場合には魅力になっている。






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最終更新日  2021年04月27日 05時12分17秒
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