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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年04月07日
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カテゴリ:山梨県の著名人

山梨県文学講座 福田甲子雄氏

初心者のための秀句鑑賞(7)七月の風景

-現代語のある俳句- 福田甲子雄氏著(『俳句』昭和57年7月号)一部加筆

 

 梅雨が明けると、かっと真夏の太陽が野山の青葉を照りつける。野の果に雷鳴がとどろき長かった梅雨が終る。夏雲が目にしみるような白さでむくむくと湧き立つと、人々は海山にどっとくりだす。自然が最も個性をむき出しにする季節でもある。冬を耐えぬいた草木が勢いっぱいの力で茂り、土用の青空へのびあがる。四万六千日、祇園祭など各地の夏祭りがはじまる。少なくなってしまったが、螢が青田の畦にあやしい光をまたたかせながら舞いあがり、七夕竹がさやさやと涼しい音をたてる。七月を文月と言うのは、七夕のおり多くの文字をしたため願いごとを書きあげたので、そんな呼称があったのであろうか。

 今月は、名詞を下五に置いて一句の完結をたかめている句を主にみていきたい。下五を名詞で止めた場合、切字のはたらきをその言葉がなし一句に安定感が生れる。俳句は作った句の後に「つづく」という印象を与えてはならない文芸で、十七音というリズムのなかで完結をみなければならない。一句の完結性が俳句のなかでは最も大切なことで、モの完成をうむために多くの工夫がなされてきた。名詞止めもその一つである。

             

さいかちの落花に遊ぶ蟇(ひきがえる)  村上鬼城

 さいかちは、別名を「かわらふじのき」と言っている。夏季に淡黄色の小花をつけて咲くが、俳句の季題には皂角子(さいかち)として、その実があげられている。それは、細長い偏平な豆莢(さや)が印象的であり、しかも昔は石鹸の代用として使われていたことなどから花より実に親しさがあったためか。

 このさいかちの小花が散ってくるのに驀が戯れている光景を詠った句であるが、局囲の余計なものは一切省略して、さいかちの落花と蟇で幽玄の世界を構築している。切字はもたないが、下五ので止めたことにより、さまざまな情景を思いうかべることのできる余情をもつ。名詞で止めることにより切字の効果をあげているのだ。散って来る小花を舌で受けとめて遊んでいる蟇の姿や、落花の中で足をひきずってのそりと動く情景など思いうかべることができ、蟇のあのグロテスクの格好がさいかちの落花のなかで鮮やかにうかんでくる。それも夕暮の次第に深まっていく中で。落花の淡い黄色の美しさと、黒褐色のイボをたくさんつけた蟇との対比が独特の雰囲気をかもしだしている。‐

 先日吟行会で昇仙峡の奥の村をたずね、その時きいた話である。

桜の花が散ると蟇の産卵がはじまり、何千匹とも知れぬ大群が夜になると山の中腹にある小さな湖に来るという。そして、産卵が終ると、再び山に登っていくそうである。その何千匹とも知れぬ蟇の足音が、まるで軍靴で行進する、かっての日本軍の音に似ているという。地に敷きつめられている枯葉の上を蟇が歩んでいく生命感あふれる音である。しかし、前掲の作は一匹の蟇でなければ幽玄の美はうまれない。鬼城は、慶応元年五月江戸に生れ、幼時高崎に家が移り昭和十三年九月没するまで高崎市に住む。『定本鬼城句集』所収。

 

 

山梨県文学講座 福田甲子雄氏

初心者のための秀句鑑賞(7)七月の風景

-現代語のある俳句- 福田甲子雄氏著(『俳句』昭和57年7月号)一部加筆

 

 梅雨が明けると、かっと真夏の太陽が野山の青葉を照りつける。野の果に雷鳴がとどろき長かった梅雨が終る。夏雲が目にしみるような白さでむくむくと湧き立つと、人々は海山にどっとくりだす。自然が最も個性をむき出しにする季節でもある。冬を耐えぬいた草木が勢いっぱいの力で茂り、土用の青空へのびあがる。四万六千日、祇園祭など各地の夏祭りがはじまる。少なくなってしまったが、螢が青田の畦にあやしい光をまたたかせながら舞いあがり、七夕竹がさやさやと涼しい音をたてる。七月を文月と言うのは、七夕のおり多くの文字をしたため願いごとを書きあげたので、そんな呼称があったのであろうか。

 今月は、名詞を下五に置いて一句の完結をたかめている句を主にみていきたい。下五を名詞で止めた場合、切字のはたらきをその言葉がなし一句に安定感が生れる。俳句は作った句の後に「つづく」という印象を与えてはならない文芸で、十七音というリズムのなかで完結をみなければならない。一句の完結性が俳句のなかでは最も大切なことで、モの完成をうむために多くの工夫がなされてきた。名詞止めもその一つである。

 

  征く人に一夜の宴の螢龍  大野林火

 

この夜の螢の明滅ほど、集う人々に人間のはかなさを与えたものはないのではなかろうか。

 いょいょ軍隊への召集令状が来て、戦争におもむかなければならない。友人、知人たちの計らいで、一夜壮行の宴が催された。宴席の障子は開けはなされており夜風が風鈴を鳴らしてすぎていく。軒端に吊るされてある螢龍の草は、たっぷりと水気をふんで濡れている。その草の中で明滅している螢の後ろの闇は、宴が経過していくと共にいよいよふかくなってくる。最初は大声をあげ激励していた友人達も、次第に無口になってきて、目が軒に吊るされている螢龍に向けられる。そこに見えたのは、心にしみるような蛍のあやしい光りである。

 征くという言葉のひびきは、戦争を経験した人であれば、胸をしめつけられるような思いがのこる。昭和十五年の作で、『早桃(さもも)』(昭21目黒書房)に収められている。昭和十五年というと、太平洋戦争に突入する前年で、中国大陸の戦火が広がり仏印(北ベトナム)に日本軍が進駐を始めた年でもある。そうした社会状勢のなかで、この螢の明滅する青白い光には、何か将来を予言しているような不気味さがある。そして、戦火が日に日に激しくなっていくなかで、人々の思いのなかには言葉にはならない不安感が次第に広がっていく。

 「螢龍」と下五を名詞止めにした中には、その宴の作者の思いが的確にこめられている。この句には切字は用いられていないが、「螢籠」で止めて、作者の心情がはかられていることにより一句の完結がなされ格調をもつ。すべての思いを螢籠にかけて余情をみちびき出した作である。林火は、明治三十七年横浜生れ。臼田亜流門、総合俳句誌の編集長を務め、昭和二十一年「浜」を創刊、多くの俊英を俳壇に送り出している。

 

 

山梨県文学講座 福田甲子雄氏

初心者のための秀句鑑賞(7)七月の風景

-現代語のある俳句- 福田甲子雄氏著(『俳句』昭和57年7月号)一部加筆

 

 梅雨が明けると、かっと真夏の太陽が野山の青葉を照りつける。野の果に雷鳴がとどろき長かった梅雨が終る。夏雲が目にしみるような白さでむくむくと湧き立つと、人々は海山にどっとくりだす。自然が最も個性をむき出しにする季節でもある。冬を耐えぬいた草木が勢いっぱいの力で茂り、土用の青空へのびあがる。四万六千日、祇園祭など各地の夏祭りがはじまる。少なくなってしまったが、螢が青田の畦にあやしい光をまたたかせながら舞いあがり、七夕竹がさやさやと涼しい音をたてる。七月を文月と言うのは、七夕のおり多くの文字をしたため願いごとを書きあげたので、そんな呼称があったのであろうか。

 今月は、名詞を下五に置いて一句の完結をたかめている句を主にみていきたい。下五を名詞で止めた場合、切字のはたらきをその言葉がなし一句に安定感が生れる。俳句は作った句の後に「つづく」という印象を与えてはならない文芸で、十七音というリズムのなかで完結をみなければならない。一句の完結性が俳句のなかでは最も大切なことで、モの完成をうむために多くの工夫がなされてきた。

名詞止めもその一つである。  

 

葉より落つ夏満月の蝸牛(かたつむり)  目迫(めさく)秩父

 

 淡々と自然を写生しているが、その底に並々ならぬ気力を秘めている句だ。夏満月という表現にしても、作者の自然に対する姿勢のありかたにみなぎるものが感じられる。月の光だけでは満足できない、日中の炎暑のほとぼりをもつ真赤な満月がそこにある。

 昭和二十七年夏の作であるから、その翌年三月喀血のための死を思うとき、夏満月という表出は、やはり真赤な昇りはじめた月が思われてならない。胸部疾患は昭和二十四年から気がつき、昭和二十七年喀血数十度におよぶ闘病のなかで、命が燃えつきるまで自然にすがって作句をつづけた。師である大野林火に、「もうよい、句に執せず安静にして一日も早くよくなってくれ」と言わしめている。

 この句の背後には、そうした事情があったにせよ、そんな私的のこととは関係なく俳句のもつ醍醐味を読者は堪能することができるところに秀句のもつかがやきがある。朴の新葉でも朝顔の葉でもよい、その葉にとまっていた蝸牛がころげ落ちたのである。そして夏の満月が真赤にうかんでいた、という句意である。この作にしても下五の名詞止めにより、蝸牛に対する思いはたかまり、その感慨のなかから湧きでてくる象徴感に胸をうたれる。

母蚊帳衣の裾のみどりをにぎり寝る

狂へるは世かはたわれか雪無限

はげしき腱炎天応へなかりけり

電柱にけふ蝉鳴かず夕焼す

 こうした一連の作を残し、病いの中で秩父は四十六歳の生涯を閉じた。

 大正六年三月横浜市に生れ、本名を文雄という。昭和十三年応召、十六年除隊後昭和特殊製鋼入社、以後句作に手を染め林火門に入る。句集『雪無限』(昭31琅玕洞)所収。






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最終更新日  2021年04月26日 18時28分45秒
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