カテゴリ:白州町・武川町 歴史文学史蹟資料室
口碑・伝説 白州町・武川町 馬八節
今を去ること四〇〇年以上前、天下は麻の如く乱れた戦国時代、天正の初め、武田家の家中に黒田八右衛門という者があった。巨摩郡大坊村(今の白州町大坊)の代官として赴任した。黒田代官はこの地に一年足らずいたのみで他の任地へ向かったが、その短い在任中に当時村小町といわれた吉右衛門という人の、お定という美貌の娘と恋仲におちいり、遂に一人の男の子をもうけた。 しかし、お定が男の子を産んだ時には既に八右衛門の姿はこの村には見当たらなかった。お定はこの子に甲斐の駒ケ岳と父八右衛門の名をとって「馬八」と命名した。お定は一人淋しく我が子を愛しみ、また父の八右衛門の帰りを待っていたが八右衛門からは何の便りさえなかった。お定は八右衛門の無情を恨む心が募り遂に気が狂って狂い死んでしまった。そこで馬八は祖父の手で育てられやがて一三の春を迎えたので、山高村の豪農溝口六兵衛の馬子として厘われるようになった。
オーヤレョー、田の草取りに頼まれて 行くもいや行かぬも義理の悪さよ
馬八はだんだん長ずるに従って、駒ケ岳や鳳凰山へ草刈り、薪取りに、大武川田圃へ田の草取りに行って骨身情しまず働いた。冬になると薪採りや炭焼きをしたり、合い間、合い間には韮崎宿まで愛馬の「しののめ」の手綱を引いて物資を運んだのである。彼の最も好きなものは馬と唄であった。始終馬を相手に暮らしていたが、四六時中、天性の美声を張り上げて思う存分歌うことが好きであった。韮崎宿への往復は、きまって歌を心ゆくまでに歌うのであった。人がいても、いなくてもそんなことにはいっさい無頓着であった。間もなく馬八の唄は武川一帯の名物となった。少年馬八の唄は、道端の田畑で働く人の心に何物かを与えるものがあった。また唄好きの馬八に対し、からかい気味で馬鹿にしたように歌ってやると馬八はすぐに オーヤレヨー 馬八や馬鹿とおしゃれども 馬八の唄聞く奴はなお馬鹿だ。 と返し唄を歌って通り過ぎたという。 月日は経って馬八は二十を過ぎた。馬子には惜しいほどの美貌の持ち主で、その上に美しい声の持ち主であったので、村の若い女の思いが彼に集まるのは当然のことだった。あちらこちらから彼に近づく女性は数知れずあったが、彼はなぜか胸に一抹の悲しみを秘めているようであった。彼がひそかに思っていることは、 「俺の母は男に騙されたのだ。俺はその報いに女を端から呪ってやる」 ということであった。 それだから近づく数多の女性に対していつも冷やかであった。どんなに女が思いつめて通っても彼の心をつかんだ者は一人もなかった。冷たい態度を示されるとますます思慕の情が増すのが女心の常である。数多い女の中で横手の小町といわれる庄右衛門の娘お政は女ながらも馬八を慕う思いの余り毎夜山高村へと通ってきた。さすがの馬八もいつかお政の情に、ほだされてお政を思うようになり、果ては馬八の方から通うようになった。馬ハがあまりに女に持てはやされるので同じ仲間の若い衆は皆彼を憎んだ。中でも日ごろから横手のお政に心を寄せていた若者は自分の恋人お政が馬八のものとなったのを知り非常に憤慨した。馬八の唄が山に、あるいは街道に、大武川端に聞こえるとき、若者は腸をちぎられるような思いで、これを聞くのであった。 馬八が道を歩いている時や、仕事に余念のない時など、突然どこからともなく、石が飛んでくることもあった。闇夜にお政の所への行き帰りに道端の薮陰から出て来た散人の若者に襲われて袋叩きの憂き目に遭うこともあった。しかし彼は、頓着せずに相変わらず馬をひいたり、お政の許に通ったりして唄を歌っていた。 失恋の約定は、お政の心を得ることは到底できないと悟ったが、どうかして無念を晴らそうと、ある日馬八のでかけた留守を狙って彼の愛馬「しののめ」に毒を与えて殺した。翌朝馬八はこれを発見して、馬の死骸に抱きついて泣き悲しんだ。モの後馬八の唄声は、いっそう哀調を帯びて美しさを増した。馬八の一段と美しさを増した唄声を聞く若者は堪えられぬ苦悩に身を悶えた。 ある年の秋の十五夜のことであった。大武川端に二つの人影が組んず、ほぐれつの格闘をしていた。一方の男の手には氷のような白刃が明月の光をうけてひらめいた。と見る間に一つの影がもんどり打って激流の中に落ちた。それは馬八が、思い余った若者の恋の怨みの刃に倒されて川の中に投げこまれたのであった。 馬八の美しい声は永久に聞かれなくなった。若者はその夜直ちに庄右衛門の家を訪れた。 「馬八は川へ落ちて死んだから、お政か俺がもらい受けたい」 と申し出た。しかし妙に落ちつかぬその態度や血痕のついた彼の衣服等から、これはただごとではないと見て、お政はその兇行を悟ってしまった。 翌朝、村人が大武川の下流で馬八の無惨な死体を発見したと同じころ、お政はすぐ近くの渓谷に身か投げて自殺した。お政の死体も間もなく発見されたが、村人は二人の心情を憐んで懇ろな葬式をして、その霊を弔った。その日、若者も自分の罪か侮いてか二人の後を追って投身自殺をした。 オーヤレョー 恋の馬八お政女と共に あの世へ行って仲よく
と馬八の死後、彼の供養のため、唄は歌われたという。名もない馬子の馬八によって歌い出された馬八節は彼の多恨な生涯を語る哀話とともに武川地方に永遠に伝わるであろう。 昭和五十七年四月、馬八の主人、山高村溝口六兵衛の後裔にあたる溝口寿子刀自は高竜寺の山門のかたわらに、馬八の供養の碑を立てた。お寺へ参詣する人は、通りすがりに馬八の冥福を祈っている(「北巨摩教育会編」)。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月26日 18時28分16秒
コメント(0) | コメントを書く
[白州町・武川町 歴史文学史蹟資料室] カテゴリの最新記事
|
|