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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年04月08日
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信州善光寺本仏の変遷

 

〔豊臣秀吉の霊夢によって、此地から京都の方廣寺に遷座〕

 

機山公によりて信州善光寺の本佛は当善光寺に移されたが、慶長二丁酉年(一五九七)、豊臣秀吉の霊夢によって、此地から京都の方廣寺に遷座することになった。秀吉は夙に大佛造成の所願があった。金彿では多大の費用を要するので、国民の窮苦を慮り、群臣にも諮(シジュン 諮問)の末、奈良の大彿等身の土の彿像を造成する事にした。まだ供養も遂げない中に、慶長元年(一五九六)七月大地震の為に破壊してしまった。

 太閤は歎じて、我年来の願望も、逸に天災の為に成就す来たって、告げて云うには、

汝の多年の大願にて土佛の大像を造立するも末代罪悪身の所作である故に、天欒の為に破滅されたのである。汝若し以後此の造営を企てるならば、造る所の佛像の胎中に、霊彿を安壇するがよい。さすればこの後天災ある場合でも、恙無く大願成就をする。

との宣言があつた。太閤は夢覚めて不思議に思ひて群臣を召して、此の霊夢の次第を物語ると、群臣の中に、甲斐善光寺の如来が無双の霊像である事を言上した者があった。其結果、太閤は急に甲斐の国司浅野弾正長政に善光寺如来を京都方廣寺へ遷座すべき事の旨を命ぜられた、その時京都大佛堂の照高院から善光寺支配役東田永壽へ寄せた書翰の返事に、

謹言御書致頂戴候、仍就太閤様御霊夢、如来於安置之御託ては、当時満山の歓悦不過之候、於此地も御告の儀、只今存知合儀に御座候、殊に興山上人為御迎御下向の條、万事得其意可令供奉候 恐悦敬白

    六月六日                栗田永壽

    大佛照高院枝尊報

善光寺に蔵する太閤秀吉道中侍馬人足の御朱印の文面には、

  善光寺如来の儀、御霊夢之仔細あって、大彿殿へ遷座の事被仰出候、然者従甲斐国大彿殿まで路次中人足五百人、伝馬二百三十疋宛可申付次第事。

とあった、その道程は甲斐より駿河国へ、之れより遠州浜松、吉田、岡崎、熱田、熱田から船にて伊勢の四日市場まで、桑名、四日市、亀山、江州土山それより石山、草津、大津、大津から、大仏殿まで、其供奉は浅野長政前頭として、以下部署を定め十五人の重役が随従した。

 

〔善光寺如来、京都へ〕

 

慶長二年(一五九七)六月十五日、伝馬人足並に役割の御朱印が下り、同年七月八日甲州を出発した。善光寺からの供奉は寺内本願寺智慶上人、並に供俸十五坊・京都から御迎えとして高野山の木食興山上人が参った。上人は秀吉の帰依僧である。1人の外守護の武士数十人、参詣の男女は路傍に手を合せて、如来の寶輦を奉迭する有様は殊勝であって其の行列の盛観なることは今想像もつかぬ程であって、甲州初まって以来の騒ぎでもあったろうと想はれる。愈御出掛となった処が、寶輦が俄に重くなって、恰も大盤石の如く如何に衆力を加へても動かばこそ、これに施すべもなかった。段々時刻も移った、当時智僧と称せられた帰命院第二世故信上人は本願寺智慶上人の師範であった。当日如来見送りの為に参詣されたものであるが、その有様を見て本願上人に謂わるゝには、愚考するに如来上洛の後は当金堂に定まる本尊がない為に、諸人が参詣して結縁をなすべき霊主がないわけであるから、結局当寺が退転の基となり、衆生を利益する本意を失うので、此事を悲しまれて、現瑞を顕したものであると思うわるゝ、即ち建久の新彿を金堂に安置して諸衆の済度を補う様にといわれた。

その旨を聞き、本願上人は新彿を賓輩の前に安置して新古の尊容を相向はわしめた。故信上人は礼拝恭敬して尊體に親近し、彿身から出る所の汗を硯の上に受け留めて、名号百幅を書したとの伝説がある。新彿とは今の本尊で建久六年、尾州の釋定尊の鋳た紫金銅の立像三尊で、中尊如来の丈は四尺五寸許り、普通開帳彿と称えて内陣に安置されている。そこでこの新彿を金堂に安置した処、賓輩が軽く挙がったので、参拝人は全く感じ驚いた。本彿は東海道の駅路を経て、七月十八日志なく京都の大彿殿に着した。新彿は同寺に跡を垂れて永く当寺の本尊と仰がるゝ事となった。こゝに又、不思議の事は本尊が入洛の後京都には大に疫病が流行して庶民の難儀が少くなかった。誰言うとなく、善光寺の本尊が入洛の為であるとの風説が高まった。これに加ふるに慶長三年(一五九八)秋の始めより太閤は病気に罹った事から噂は噂を生んで、如来の崇りであるといった。

 如来は往昔の因縁によって跡を東海に垂れたものを.太閤は己れの権威を以て無理にも上洛をさせたのである為にこんな事が起ったものである。此のまゝにして置けば、子孫も亡ふるに至るという噂から、深慮の淀君は群臣と謀り、森右近太夫忠政が上意を蒙りて、翌慶長三年(一五九八)七月下旬京都を発し、再び如来を返す事になって、木曾路を経て東国に帰した。段々通過して信州の塩尻峠に到った時、賓輩はまた俄に重くなって挙がらぬので、供奉の人達は大いに恐れ、時刻も移る時、老僧が進み出で、

彿意の程は測り難いが霊夢の事から考えても、往古垂跡の地は信州である。-且は機山公の願望で甲斐に移ったが、つまり川中島の舊地に帰座なさるゝ御思召であらん

との意見から、一と先づ尊像を塩尻の宿に止めて、其儀を上方に注進した処が、「佛意に任せよ」との事で、屡尻から川中島に送り、慶長三戌年(一五九八)八月、信州の舊地に帰座された。

〔豊臣秀頼〕

其後豊臣秀頼は、善光寺御座を建立して寺領千石を寄進され、これより本佛は信州に跡を垂れ、新彿は甲斐に化を顧はされ、無得光如来の徳を輝かした。

 其後当国に封を受けた徳川大納言忠長は、元和二丙辰(一六一六)九月入府して、寛永八辛未年(一六三一)六月二日まで居られた。其在任中、当山修理の願い出でを許可され、金堂は檜皮葺に造営する事となり、天野傳右衛門、岩波七郎右衛門、松本三太夫其他と感榮坊が監督の下に、後藤権兵衛、松本輿惣右衛門、吉川治郎左衛門、小宮山長左衛門を下奉行とし、寛永八年(一六三一)より初まって、翌九年の六月成就した。その後は大久保忠成が、同九申年十月から十年三月廿三日まで城番として居られたが、寛永十三年(一六三六)より寛文元辛丑年(一六六一)まで二十六年間は、旗下二人づゝ年々交替で国内の統治をした。その間に寛永十六卯年(一六三九)、常山三十九世専拳上人の代、大門下板垣村の木戸の普請を郡内の平岡勘三郎がしたと記録にあるが、此の人は前の大久保忠成の時代にも代官をしたもので係数の篤信家であって、当山の為には前後力を致されて居る。






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最終更新日  2021年04月26日 18時13分09秒
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