さくら讃歌 日本の春
『桜の文学史』 小川和祐氏著 朝日文庫 1991刊 一部加筆
日本の春は長い。
暦の上でいえば、厳寒期にもう新春が訪れる。明治五年(一八七二)に太陽暦を採用してから日本の春はより長くなった。立春までにはまだ三十数日を数えねばならない。それだけに花の季節が待ち遠しいのだ。
春の訪れはまず空の色から始まる。裸の雑木林の梢の奥に冴え冴えと広がってどこまでも澄んでいた蒼穹が、ある日ふと潤んで来る。気がつくと風が止んでいる。それからなんどか柔らかい雨があって、林はみずみずしく匂い立って来る。林の南縁の小道に沿って、そこここにかたくり(片栗)の蕾がひっそり膨らんで来る。空は董(すみれ)色になる。そのころになると、「さくら前線」の北上が告げられる。平野を囲む丘陵ではまだ裸のままの木々に混じって、そこだけが灯りのともったようにヤマザクラが咲き始める。古代人たちにとっては、さくらの開花は山の神の里への臨降の告知だった。
彼らは里を訪れた神を斎(いつき)祭り、神と酒食をともにしその年の豊作を祈ったのだった。さくらは古代人にとってたいせつな農事暦であり、その開花は一年の吉凶を予兆する聖なる樹でもあった。その桜樹信仰という古代人たちの素朴な祈りはいまも日本の春に生きている。
花便りで人びとは重いコートを脱ぎ捨てる。そして、新しい年度が始まる。さくらは人びとの一生に忘れ難い節目を刻む。私たちの回想する幼年時代の原情景には、どこかにさくらの花がある。
それは母の手にひかれた小学校の入学式のそれであったり、行楽の日の父の背に負われて見たそれであったりする。-眼を閉じてさくらの花を思い浮かべてみるといい。明るい、明るすぎる春の陽の中に満開の花が輝いている。その私たちの記憶のなかのさくらは大輪咲きの淡桃色のさくらでなくてはならない。
間違いなければ、私たちの回想の原情景に嘆くさくらは、江戸時代も終わりのころ偶然のいたずらが創り出した新しい里桜の一種ソメイヨシノ(染井吉野)なのだ。このさくらはオオシマザクラ(大島桜)という南開東に自生する山桜とエドヒガン(江戸彼岸)の自然交配によって生まれた新しいさくらだった。
このさくらは育成が容易なことと、親木のオオシマザクラの大輪咲きを受け継ぎ、花つきも多く、なによりも嫩葉(わかば)の芽立ちより先に開花する。新しいものに極端な噂好を示す江戸人は競ってこの新しい里桜を植えた。
ちょうど時代は明治維新の転換期で、あたらしい首都となった東京には地方から多くの人びとが上京し、この新しいさくらを賞でただろう。「御一新」がソメイヨシノの流行を全国的に増幅したのは想像に難くない。やがて、明治の中頃までにはこの新品種の植樹によって、日本の春の景観は一変してしまった。