カテゴリ:山縣大弐
山縣大弐小伝 『人名像伝』 甲州の人天資英邁傳洽にして、鈴韜の学に長し儒彿陰陽方技の学にくわしく、諸子百家の書渉獵せさるものなし、故に門に至りて柴を受る者多き中、小織信邦侯をはじめ老臣吉田玄蕃、津田頼母、尊王の志篤く、又同国の人藤井右門、京師の處土竹内式部、然も皆有志の人々にて平常に集会して、文を講し武を練りけれは、衆人頗る其形跡を怪しみ密かに幕府へ変を告げるものあり、之に依りて鞠問する事以て厳密なれとも、実に反形なししかれとも、大弐か平生諭する所尊王抑覇にして、兵事を論談すむに至りては、能く諸国城取の可否を諭し、攻守のみちを解するに至りて、大ひに忌諱にふるゝ所ありて、終に斬首の刑に処せらる小幡侯をはしめ連累するもの多し、是近世勤王主唱の嚆矢とも称すへきにや、柳子新論を著して共の志を述るといふ。
山縣大弐小伝 〔徳川実記〕深明院記第十六 明和四年八月廿二日条 上野周小幡の領主織田美濃守信邦任をとゝめられ、家に蟄居すべしとの命あり、よに仰下さるゝは、家の長吉田玄蕃威福そはり、英職に應せざりしとて先に籠遭たるに山縣大弐といへるものと会合し、甲斐の府をはじめ碓氷箱根など、要害の地理を論究せしを究察すとて、稽延するほど、既におほやけより尋ねらるゝに至れり、いやしくもおほやけにかゝりし事なれば、もはら心をいれすみやかに玄蕃をたゞし、事の虚実深浅をさぐり得て、たとへさせるあとなくとも、一まづ聞え上べきを、たゞ玄蕃が奉職無状のみをいましめ、公にかゝれる事は査検等閑にせしはひが事なり、されと別義もて兼ねて権に養子とこひし弟八百八侶浮に二萬石を賜はり、封地に転して出羽国北畠にうつされ、鍛冶橋門内の邸もおされられ、家の品階も今よりのち同族山城守信舊、丹後守輔宜にひとしかるべしと仰出され、御前をはゞからしむ、此信邦実は一族高家封馬守信栄が三子なりしが、故の和泉守信富子なくして身まかりしかば、明和元年七月廿九日養子となり家をつぎ、同じ八月十五日初見し、十一月十三日叙爵して美濃守と称し、けふつみかうぶりて、天明一二年七月八日三十九歳にて卒せり、封馬守信栄は職を奪ひ致任せしむ、猶重くつゝむべしと命せらる、是信邦が実父なれば、こたびの心つけもあるべきに捨置しとの咎めなり、よて信栄が家はその子式部信之にづかしめ寄合となされ、さらに御前をとゞめらる、信邦が家人津田頼母をはじめ此事にあづかりしものみなはらはれぬ、(日記藩翰譜績編) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月26日 17時59分09秒
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