カテゴリ:韮崎市歴史文学資料室
徳嶋兵左衛門の人柄について (『甲州夏草道中記 下巻』山梨日日新聞社) また三枝善衛道中講師は徳嶋兵左衛門について次のように語った。 竜王村字本竜王、三社神社の裏側高岩の穴をうがって釜無川を引き入れ、富竹新田村を開いたのは、寛永十四年(一六三七)時の代官触頭平岡治良右衛門和由であった。新田村が完成すると、寺がなくては叶わぬとばかりに、臨済宗と日蓮宗とニカ寺を創建した。そうして臨済宗の寺には、自分の法名である大翁玄広居士から大翁山玄広寺と命名し、日蓮宗の寺は、その上下を取って寺号を大広寺とした。とかく事業家は、事業を記念して、どこへか自分の名を残したがるものである。名代官と言われた平岡ほどの人物でもその例にもれなかった。 ところが徳嶋堰の開削者徳島兵左衛門は、多年祈願をこめた七面像を堰頭首に勧請し、身延の法主日延上人に願って、寺を清氷山妙浄寺と号した。寺は、法名は妙浄日義大姉といい、妙浄は生前に用いていた人の講名を以って寺名としたか、いずれにせよ夫人の内助の功をめでてのことと思う。兵左衛門の心のゆかしさ、夫婦の睦じさなどがしのばれ、人閲兵左衛門の人柄がうかがわれるではないか。 兵左衛門の考えていた水路は、単に上円井から鰍沢迄の新田開発ばかりではなかった。もっと大きな目的は恐らく としての水路にあったのである。しかしこの地勢では、その機能を発揮させるためには、(階段式)運河の構想があったことと思われる。 閘門の起源は、支那が最も古く、元の世祖至元二十一年(一二八四)に築造している。日本では宝永五年(一七〇八)にほぼ完成した茨城県の勘十郎堀があり、享保十六年(一七三一)に築造した埼玉県の見沼通船堀がある。兵左衛門に初志を貫徹させるなら、日本最古の開門式運河が実現したはずである。彼の学識の深さ、また土木技術者として自信は高く評価してもよくはないかと思われる。
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最終更新日
2021年04月26日 17時05分48秒
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