カテゴリ:白州町・武川町 歴史文学史蹟資料室
横手本村に桜の巨木 (白州町大坊・横手・菅原・教米石)(『甲州夏草道中記 下巻』山梨日日新聞社) 第三日の十日は前日の豪雨とはうって変わった快晴に全員元気いっぱい、朝七時半天薮鉱泉を出発した。天野広親区長の案内で白州町天坊の天野厚氏宅にある信玄像を見、横手の旧家出田田護楼氏宅では中山太郎区長の説明を受けながら無銘だが長船だと伝える太刀(二尺三寸五分=七一・ニセンチ)包重(一尺七寸=五一・五センチ)の古刀や軸などを研究、中山区長の案内でかつての旧家横手彦寧氏の屋敷跡をみた。更らにその関係から横手氏の墓がある横手山安福寺では横手氏の先祖をたどって研究する者もあった。 一行は墓地裏を出て信州へ技ける旧街道を横手本村に進み横手の名所だという幹囲四・一二メートル高さ一二メートルの桜の下で一休した。ここで中山区長から本村がもとの横手の根拠であったが、西村、原村、新居などへ移り住み、いまは中山、駒木、赤羽などの姓を名乗るわずかの人しか残っていないこと。西村など新部落は貧富の差はほとんどなく経済状態は平均していることなど、部落の推移が説明された。また寺や神社も移ったが、その跡などがまだはっきり残っているという。 【馬場美濃守信房・天保騒動・獅子舞】 やがて一行は本村の細道を国道に向かって歩を進め、前沢部落で馬場美濃守の宅跡を見(?・)、案内に当たった浅川元菅原村長は「馬場美濃守が長篠の森で自刃し、若宮八幡に葬ってある(?)。この付近にはいくつかの塚がある」ことを説明された。一行が白須の松原に到着すれば古屋町長や役場職員、婦人会員など大釜でお茶をわかしての歓迎だった。松かげで昼食の折り、竹川義徳講師から「白州町下宿の高木勲氏宅大黒柱にはヨキ(斧)あとがあり、天保騒動の一味が流れ流れて白須にまで至り米屋にも暴れ込んでいる」ことが説明された。 午後は新街道へ出て六地蔵を見、島原で教来石民部の屋敷跡を見学、下教来石に入り、明治十六年明治天皇巡幸の際の御小休所をみて旧鳳来村の産土神諏訪神社でくつろいだ。神社境内では一行を歓待するため地元青年団による「獅子舞い」婦人会の「教来石甚句」など土地に長く伝わる民踊が披ろうされ、秋山藤一さん(七五)の「馬八踊り」は疲れた老人たちを慰めた。 【教来石・きょうらいし・明治天皇田植え石・・山口番所・山口素堂】 神社を出て日本武尊が東国征伐のとき休んだと伝えられるヘテコ(テ?)石(教来石)また明治天皇が巡幸の時、田植えをご覧になったという「明治天皇田植え石」をみて上教来石へ入った。ここで山口番所り案内に当たった有賀宜一元鳳米村教育長は「関守りをしていた二宮、若尾両家は今はこの土地を去っているが、番所のすぐ隣りが俳人山口素堂の生地である」と説明、一行は進藤積善さん方で保管している昔、番所で使用された「つく棒」「さすまた」「そでがらみ」などを見、素堂屋敷跡(?)に住まっている佐伯さんからは移り住むまでの由来を聞き、一路国界橋に進み予定より一時間余り早く三時五十分には全員無事到着、四時から橋畔で道中の感想などを述べあったあと、小沢秀之団長の発声で夏草道中の万歳を三唱、解散した。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月26日 17時05分17秒
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