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2019年04月09日
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カテゴリ:市川團十郎 歴史

「荒事」を完成させた名優の非業の死 市川団十郎

 

元禄の人間像 市川団十郎 演劇評論家 利倉幸一氏著 一部加筆

 

初代市川団十郎が死んだのは元禄十七年(宝永元年・一七〇四年)一月十九日、ちょうど赤穂浪士の切腹の一年後である。

 舞台での殺人は珍しいことではない。初期の阿国(おくに)歌舞伎時代はともかく、歌舞伎が一応のストーリイをもつようになった。

つまり「通し狂言」をやるようになってから、「殺し」の場面は必ずあったといってもいいほどに、何でもない出来事のように見過ごされていた。それが「芝居」だからと観客は納得していた。しかも、のちにはその「殺し」の場に美学を見つけようとした。どのように「殺し」を美しいものにするか、たとえむごたらしい「殺し」でも、惨酷性を感じさせない工夫を凝らした。「殺し場」という殺伐なるべき情景に、むしろ逆な効果をもたらすような演出がおこなわれた。

  

永遠の謎 ― 団十郎刺殺事件

 

 このように舞台では頻繁に殺害事件がおこなわれているのに、それがほんとうの事件としてあったのは、この初代団十郎の事件が初めてであり、その後にも例がない。

 あるいは地方での社会面の記事として扱われるような殺傷事件はあったかもしれないが、演劇史にとりあげられるようなのはこれが初めてであり、しかも、それが江戸歌舞伎の基を築いた大きな存在の団十郎だっただけに、これはその時代では梨園(りえん)のみならず、市井の大きな事件であったにちがいない。

 元禄十七年二月十九日、団十郎が市村座で「移徒(わたまし)十二段」という芝居で、佐藤次信(継信)の役で出演中、杉山半六に剥し殺されたが、その真相はすっかり解明されているわけではない。

 その原因は、団十郎が杉山半六に不倫のことがあるのを憎んで、その幼子まで辱しめたので怨みを買ったというのが通説になっているが、半六そのものの身分からして、役者あるいは楽屋頭取の二つの説がある。

 すでにその時分の劇壇の王座に就いていた団十郎の横死だけに、その後にそれについての小冊子が出版されているが、いずれもはっきりしていなかった。

 

事件

その日の昼ごろ、団十郎が舞台正面で芝居をしていると、俄か雨が降ってきた。仮小屋のことなので雨漏りがしてきた。

その時、半六が楽屋からが羽を持って出て、団十郎に濡れるからと言いながら、後ろから合羽を着せかけると見せかけて、“グサリ”と団十郎の脇腹に刀を突き立てた。団十郎は即死に近く、半六はその場で捕えられた。のちに牢死。舞台での殺人、しかもそれが今日で言えば芸術院会員級の、それ以上の文化勲章を貰ってしかるべき俳優なのだから、大事件だったのは云うまでもない。

 

団十郎は、享年四十五。四座あった櫓(劇場)の頭領的位置にあったが、二百何十年経った現在でも「江戸かぶきの宗家」として、戦後は封建性へのはね返りから昔ほどの権威はなくなったが、それでも十数年前の峯か孵の十一世団十郎襲名興行の異常な景況にも見られるように、団十郎という名前のもつ偉力にはちょっと計算外のものがある。

 初代が段十郎から団十郎に改めてからの基礎工作。実子の二代目がすぐれた貳影をもっていたので、いよいよ「団十郎」の声望を高め、四代目、五代目、七代目と、生理的な意味での血脈はつながっていなかったが、相次いで名人上手が出て、明治期の九代目がまた図抜けた名漫だった上に、開化期に対処するのに恰好の才能や見識をもっていたので、ますます「団十郎」の評価を高めて、菊五郎と並んでかぶきの代表的な芸名にした。九代目の追遠興行の時には「劇聖」という表現がつかわれた。

 かぶき技術の伝承の上からは、九代目の「活歴」に典型されている新しいかぶきへの志向はどれだけ役立ったかどうか、いろいろ説もあり得るが、代々の団十郎が「宗家」として納得させる芸格や芸容を具えていて、かぶきの秩序を正し、次の時代へまで引き継いだ功績は大きい。

 封建性の遺物といってしまえばそれまでだが、代々の団十郎と江戸市民とのつながりには、格別なもののあったのは見逃せない。庶民的な信仰に近いものが江戸市民の団十郎を見る眼の中にあったのだ。

 

荒事

「荒事」は庶民願望のあらわれ、その経歴からして変っていた。これにもいろいろ異説はあるが、甲州の武田家の堀越姓を名乗る遺臣であり、《割注》(調査の結果、武田家臣団にはその名は見られない)

代々下総幡谷村に住んでいたが、祖父の重右衛門の時代に江戸に出て、神田和泉町に居を定め、父の重蔵は算筆が達者だったので、地主の代理人みたいな地子総代人になり、気性は強く、財を成したが、人望も集めて、侠客とも交わり「菰(こも)の重蔵」と呼ばれていた。「面疵(つらきず)重蔵」の異名は喧嘩沙汰の名残であろう。

 こういう系図調べというものはとかくに余計なおまけがつくもので、「成田屋の紋の三枡」も「甲州の三升枡」に起っているとも言われるし、その姓も市川郷と結びつけられている。

 そういう詮議はともかく、団十郎が十二歳で役者になった時に、当時の有名な侠客の唐犬十右衛門が、その七夜に長寿を祝って贈った海老の画によって海老蔵と名づけられたという説。一方では幡谷村の傍の海老川によっているという説。

 いずれにしても、当時の有名な侠客の名が経歴の中に出てくるあたりからも察せられるように、侠客的な生活をしていた家から芝居好きな少年がこの世界に飛び込んだということは確かである。

 十四歳の時に段十郎。「四天王稚立(おさなだち)」という狂言で坂田公時(金時)に扮した時に、紅と墨で顔を隈取って、衣裳もまた荒い童子格子に丸ぐけの帯という、公時と言えばすぐに結びつけられる扮装ではあるが、団十郎がそれを舞台の上で創案し、しかも「荒事(あらごと)」という特殊な演出でそれをあらわした。

「隈取(くまとり)」といい、「荒事」といい、それは当時の流行であった豪壮の気をたたえた金平浄瑠璃(こんぴらじょうるり)からの影響が大きかったことは十分に考えられるが、しかし、それを初めて舞台の上に形づくったのは団十郎であり、そういうおそらくは異色であったであろう演技・形式をもち込んだ背景に、団十郎が侠客の家の出ということも理由に挙げられるだろう。

 そしてそれを成功させたのは、団十郎の考案・演出・演技が適応したものだったからだが、あたかも、そういう強い力の表現したものが待望されていた、その時代のという環境は見逃されない。

 荒事の演出には、優雅と典麗というよりも、豪気、時には粗放さ条件になる。わざと田舎じみた言葉を挿入したりもした。洗練とか粋とは縁遠い、つまり直線的な「力」の表現が好まれ喜ばれた。

 元禄時代という華麗な雰囲気の想い出される時代に、かえって逆な印象の団十郎、そしてそれに典型される江戸風の「荒事」が迎えられたのも、変化を期待する庶民の願いもあったからだと思われる。

 その屋号の「成田屋」につながる不動尊との連関も大きく作用している。初代の時代から興った「曾我」狂言の上演は、のちには長く慣例として伝えられて、江戸時代の百年以上もの久しい間、初春興行には曾我兄弟に因む芝居を、三座ともにとり上げてきた。といっても、同じ脚本というわけではない、一日の通し狂言のどこかに曾我兄弟が登場してきたので、その一例は今日にも見られるように、歌舞伎十八番の「助六」の『花川戸助六、実は曾我五郎』という役名にもうかがえる。史実としては無論のこと、風俗的に言っても、江戸の男達と曾我五郎がつながる道理はないのに、必ずそういう二重の境遇の人物を登場させた。曾我五郎が出て来ないと見物側は納まらなかったのである。

 そして、五郎はその役の一つのパターンとして必ず舞台で睨んだのである。瞬間、両眼をカアッと開いて、全身に力を籠める表現。「見得」という。その「見得」によって、江戸の庶民は悪霊が落ちると信じていたのである。「五郎」と「御霊」ということばの連関。民間信仰にはそういう理屈にもならない他愛無いものがあった例は、他にも幾らも有る筈である。

 どうして、それが市川団十郎でなければならなかったのか。

 私は、初代の団十郎が、それ以前の江戸に見られない芸質・芸容だったことをまずあげたい。そして経歴。

「役者」なり、あるいは蔑視された「河原乞食」という言葉のうしろからは、およそ「力」は感じられない。柔弱なるもの、よく言って柔和なもの。それが「役者」を規定する一般的な定義に近い。現在でさえも「タレント」に代表される表現への受けとりかたは、「力」とは裏腹なものなのである。タレント議員は国会のちょっとしたアクセサリーとはよく言われているところだ。タレント議員に「力」など期待しない。

三百年近くもそういうように見られ続けているのだが、その「役者」の中に「力」を強調した団十郎が出現したのである。

 

「荒事」は庶民願望のあらわれ、

 

その経歴からして変っていた。これにもいろいろ異説はあるが、甲州の武田家の堀越姓を名乗る遺臣であり、《割注》(調査の結果、武田家臣団にはその名は見られない)

代々下総幡谷村に住んでいたが、祖父の重右衛門の時代に江戸に出て、神田和泉町に居を定め、父の重蔵は算筆が達者だったので、地主の代理人みたいな地子総代人になり、気性は強く、財を成したが、人望も集めて、侠客とも交わり「菰(こも)の重蔵」と呼ばれていた。「面疵(つらきず)重蔵」の異名は喧嘩沙汰の名残であろう。

 こういう系図調べというものはとかくに余計なおまけがつくもので、「成田屋の紋の三枡」も「甲州の三升枡」に起っているとも言われるし、その姓も市川郷と結びつけられている。

 そういう詮議はともかく、団十郎が十二歳で役者になった時に、当時の有名な侠客の唐犬十右衛門が、その七夜に長寿を祝って贈った海老の画によって海老蔵と名づけられたという説。一方では幡谷村の傍の海老川によっているという説。

 いずれにしても、当時の有名な侠客の名が経歴の中に出てくるあたりからも察せられるように、侠客的な生活をしていた家から芝居好きな少年がこの世界に飛び込んだということは確かである。

 十四歳の時に段十郎。「四天王稚立(おさなだち)」という狂言で坂田公時(金時)に扮した時に、紅と墨で顔を隈取って、衣裳もまた荒い童子格子に「丸ぐけの帯」という、公時と言えばすぐに結びつけられる扮装ではあるが、団十郎がそれを舞台の上で創案し、しかも「荒事(あらごと)」という特殊な演出でそれをあらわした。

「隈取(くまとり)」といい、「荒事」といい、それは当時の流行であった豪壮の気をたたえた金平浄瑠璃(こんぴらじょうるり)からの影響が大きかったことは十分に考えられるが、しかし、それを初めて舞台の上に形づくったのは団十郎であり、そういうおそらくは異色であったであろう演技・形式をもち込んだ背景に、団十郎が侠客の家の出ということも理由に挙げられるだろう。

 そしてそれを成功させたのは、団十郎の考案・演出・演技が適応したものだったからだが、あたかも、そういう強い力の表現したものが待望されていた、その時代のという環境は見逃されない。

 荒事の演出には、優雅と典麗というよりも、豪気、時には粗放さ条件になる。わざと田舎じみた言葉を挿入したりもした。洗練とか粋とは縁遠い、つまり直線的な「力」の表現が好まれ喜ばれた。

 元禄時代という華麗な雰囲気の想い出される時代に、かえって逆な印象の団十郎、そしてそれに典型される江戸風の「荒事」が迎えられたのも、変化を期待する庶民の願いもあったからだと思われる。

 さらに考えられるのは、上方文化に対する反発。文化文政期へいくまでの、江戸文化のまだ確立していない時に、武蔵野の醸野に野太く立っているかのような新しいタイプの文化を、江戸の庶民は、民間信仰的な臭いをふくめて生み出そうとしたと、とれるのである。

 時事的な材料を扱う芝居を禁じてきたこの時代の成行きとして、初代団十郎はついに赤穂浪士を主題とする狂言とは無縁であったが、そして、その後の団十郎代々も「忠臣蔵」とはことさらなつながりはなかったが、赤穂浪士の復讐事件に大きな関心が寄せられた時代と土壌だったことが、かえって団十郎を育てたのではないかとも考えられる。

 元禄時代。その波静かなおだやかな空気に活気を注入したいという気持が、団十郎の登場、「荒事」の出発によっていくらかは癒されたのではないだろうか。その名優の非業な死は元禄時代の江戸市井の事件として、意外に大きな反響があったのではないだろうか。それらを説明する材料かほとんど書き残されていないのは、まことに憾(うら)みである。






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最終更新日  2021年04月26日 17時03分45秒
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