2311802 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2019年04月10日
XML

牛田喬修

 明治三十三年(1900)二月十五日武川村柳沢(旧駒城村)五七九番地において、牛田菊次郎の長男として生まれた。
 生来から画才があり、小学校を卒業すると上京し、大正三年(1914)私立東京中学校に進学した。学生時代から芹田劉生、木村荘八の草土社の影響を受けたため、草土社風の絵を多く画いた。
 山梨師範学校在学中は美術担当の矢崎好幸の門下生の逸材として、画才を伸ばし、大正の末期土屋義郎を中心とした山梨美術団体の草分けでもある赤蓼会に所属した。この会は春陽会系統の集まりで教員出身の画家が多かった。赤蓼会は大正十二年(1923)十月第一回展を甲府商工会議所で開いている。メンバーは、土屋義郎、進藤章、田中常太郎、山村正次、牛田喬修等七人ほどであった。その後も毎年一回グループ展をお城の機山館、柳町の創生館、錦町の永井呉服店の二階等で開催した。当時草土社風の絵が赤蓼会を通じて県下の図画教育に大きく影響して随分流行した。このグループは教員であったことも大いに関係していたことであろう。
牛田喬修はこのころから既に県下有名画家の一員として頭角を表わすところとなり、昭和五年(1930)「卓上静物」が第八回春陽会に見事、入選した。これを契機として発進して上京した。昭和七年、三十二歳の時である。
このころは土屋義郎、進藤章等の上京していたこともかなり影響したことであろう。三人は一九〇〇年生まれの同年輩である。中央画壇において活躍し、良き師を得て精進を重ねた。
 画風は草土社風の静物画であったが、それから脱して次第に印象画風な人物でフォービズムの加味された装飾的なものに移っていった。昭和十二年(1937)一月には土屋義郎等と山梨美術協会を在京会員として結成に力を尽くした。
 性格は非常に真面目な無口の人で、甲斐駒ケ岳の麓の山村の生まれらしい何か毅然とした根強い信念さを大切に抱いて独自な心境を亡くなるまで持ち続けた個性的な画風を貫いた人である。峡北美術の進藤春木は次のように評している。「牛田先生の作品はいい知れない重みと風格があった。カドミュームレッドとバーミリオンを主調にした重厚な色彩は的確な構成力と相まって、そこには古典的な重苦しいまでに静かで厚みのある一種の詩情が漂い、古さの中にも永遠不動の静かな実の世界が存在するかのように思われた。先生はよくルノアールやゴーギャンを引合いに出して批評されていたが、確かにこの画聖の研究をされていて少なからずその影響を受けていたようである。技術をおさえ巧まない黒光りのするような卓上静物にみる強烈な赤を主調にした色彩は今なお私の脳裡に焼きついて離れない」このように柿を画材としてもその構成と色彩に牛田喬修らしい配慮と峡北のローカルの上に立つ感覚を常に生かそうとしていたのである。
 喬修は実に多芸で、師範学校在学時代に絵画は矢崎教授の研究室に籠る他、音楽教授森乙の率いるバイオリンクラブに所属していたのである。その関係か昭和の初年武川小学校教員時代には「雨の武川」「精進音頭」を作詩した。これに平田泉鳳(鉄寿)が作曲し当時の盆踊りには盛んに歌われた。この歌は五十年後昭和五十二年にレコードにして振付けが行われ文化祭に披露された。
 このように彼は高い芸術性を秘めながら、教師として直接、子供たちに絵を教え、文学を教え、音楽を教えた。自らは、山美協、春陽会に属して本格的実の追求に精進していたのである。
 昭和二十年(1945)四月戦災のためやむなく柳沢の生家に帰ったが、在京中も山梨美術のためには常に協力して来た。
 昭和二十三年十一月、小淵沢の進藤章等と共に峡北美術協会を創設した。当時峡北には尾自会の原田成大、小河利政、韮高教師吉野純夫、日本画の斉藤倭文夫、野口栄蔵などが賛同し「会員相互の研鑽と地方芸術文化への貢献」とキャッチフレーズをかかげて発足した。小淵沢新制中学校の竣工記念行事に参加して第一回展がもたれ、土屋義郎、相田隆太郎、石原文雄各位の記念講演会が行われた。その後は郡下の要所要所において公募展が開催されたが、いつも牛田は中心的立場で運営にあたり個性的な力作を発表した。
 また中央画壇春陽会にも立派な作品を出品し七回の入選画歴を残している。土屋義郎も「当時春陽会展において入選することは大変むずかしいことだったが牛田君はよく努力しこの栄誉をかちとったことは実に素晴らしい。」と評している。
 名前は喬修(たかよし)であるがサインは総べて(USHDA)または(KHHU)である。ただ一点だけ実相寺、日研上人の画像に喬修とサインしている。
 戦後郷里の小中学校で教鞭を執っていたが昭和三十二年(1957)職を辞し、専ら絵筆に敏腕を揮っていたが、昭和三十六年(1961)一月三十一日、六十一歳にて逝去した。
 「謙敬院育英日喬居士」菩提寺は武川村山高大津山実相寺、柳沢の墓地に眠っている。
 昭和五十二年五月有志長坂町富岡の元高校教師現峡北美術会員である吉沢真、陶芸家の林立平、郷土史研究家中山嘉明の三名によって牛田喬修画集「赤蓼」を発刊した。
 武川の生んだ大芸術家牛田喬修の作品は永遠に生き続けている。
 





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021年04月26日 16時53分35秒
コメント(0) | コメントを書く
[白州町・武川町 歴史文学史蹟資料室] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

10/27(日) メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X