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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年04月10日
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『やまなしスポーツものがたり』山梨県小中学校体育連盟 一部加筆
 

日向正善(ひなた・まさよし)●プロフィール

 明治41927日生まれ。北巨摩那須玉町江草出身。江草尋常高等小学校卒業。
大正11年、甲府中学入学。2年生でテニス部入部。翌年、県下第一回一般選手権で第一シードを破る。昭和2年、慶応義塾大学政治科入学。全国都市対抗、全日本選手権優勝。第二次大戦後は、芝浦工業大学などで指導。全日本クラスの選手を育成。日本軟式庭球連盟参与、山梨軟式庭球協会理事長。
 

 ぼくらは〝王者〟だった

 
「あれ、きょうも来ている。宮崎のやつ、必死なんだな。」一九二七(昭和二)年のこと、東京にある慶応義塾大学の一年生日向正善は、テニスコートわきのスタンドから、〝あついまなざし″を送ってくる宮崎久男の姿をみとめて、そんなふうに思いました。
 日向と宮崎は、甲府中学時代にペアを組み、数々の軟式テニス大会で優勝している仲です。けれど、日向は慶応大学に進み、宮崎が中央大学に進んだことによって、〝向かうところ敵なし″だったペアは、別れ別れになってしまいました。
「おい、たのむよ。どうしても一度、全日本で優勝したいんだ。それには、パートナーとして、きみが必要なんだ。」
宮崎が慶応大学の大森テニスコートにやってきて、こうたのんだのは、一週間前のことでした。日向には、宮崎の気持ちが痛いほどにわかっていました。自分と組んで中学時代に数々の栄光を手にした宮崎が、パートナーにめぐまれず、このところ不振続きなことも知っていました。けれど、日向は宮崎のたのみにこたえることはできません。
大学に入学した日向は、軟式テニスか硬式テニスに転向したのです。しかも一年生なのに、全日本学生選手権大会に先輩とペアを組んで出場し、かなりいい成績を残しています。
その上、早稲田大学との対抗戦に出場する七人の選手の一人に選ばれていました。つまり日向は慶応大学硬式テニス部の〝期待の星〟だったのです。
「こんなわけだから、きみと組んで軟式テニスをやるわけにはいかんよ。悪く思わないでくれ。」
 日向は、こういって、その日は宮崎と別れました。けれど、宮崎はあきらめません。毎日、
コートにやってきて、日向の練習ぶりを、じつと見まもっているのでした。
「よし、きょうはこれまで。」
 夕ぐれになり、練習が終わりました。帰り支度を整えた日向のそばに、いつものように宮崎がやってきます。
「何度いわれても無理だよ。今のぼくは、きみとペアを組める立場にはないんだ。」
 日向は、宮崎が口を開く前に、きっぱりといいました。宮崎は、悲しそうな顔になって、ぽつりとつぶやきました。
「やっぱりだめか……。日向、きみとぼくは〝王者〟だったのに……。」
なんと心地よい響きでしょう。日向の心の中に、誇らかな気分がふつふつとわいてきます。
(そうだ、かつて、ぼくらは〝王者〟だったんだ。)
宮崎とともに勝ちとった栄光の日々を思いおこしました。

 ふろしきにつつまれた優勝旗

一年前の六月。日向が中学五年生のある日、甲府中学の先輩のひとりが、
「東京で、専修大学主さいの全国中学校大会があるんだが、出場してみないか。」と、さそいをかけてきました。
 前衛・日向、後衛・宮崎は、五年生になって組んだペアでしたが、ふたりには自信がありました。けれど、この大会に出場することを学校は赦していません。
「学校でみとめていない大会に、かってに出場するわけにはいきません。」
ためらうふたりに、その先輩はいいました。「心配するな。大会は土曜の午後から日曜日にかけての二日間だ。学校を休むわけじゃないから、内緒で出場すればいい。」
先輩の力強い言葉に励まされて、日向と宮崎は、その日が来ると、意気ようようと、東京に出かけました。
ふたりがペアを組んで、はじめてのぞむ全国大会です。けれど、ペアはちがっていても、卒業した先輩たちと組んで、いろいろな大会で括やくしたふたりです。一回戦、二回戦と勝ち進み、四回戦では優勝候補をも、あっさりと破って、翌日の決勝戦へこまを進めました。
 ところが、翌日の日曜日になってみると、朝から雨がふっていて、大会は一日のびてしまいました。
さあ、たいへん。
「試合に出たい。」
学校に内緒で出場したふたりです。月曜日は学校に行かなければなりません。
でも、学校がある……。」
 ほとほと困ったふたりは、先輩に相談しました。
「なあに、心配するな。ここまできた以上、決勝戦には、ぜったい出場しろ。学校には連らくして、許しを得ておく。」先輩は心強く、うけあってくれました。
 試合には勝ちました。優勝です。けれど禁じられている大会に出場し、学校を欠席してしまったふたりには、うしろめたさがつきまとっています。ふたりは、おくられた優勝旗をおりたたみ、ふろしきに包んで、こそこそと甲府駅におりたちました。すると、
「おい、こら!」
 庭球部長の赤木先生の声がします。しまった!見つかってしまった。
「すみません」ふたりは同時に首をすくめそして、あっとおどろきました。なんと、千人あまりの全校生徒が整列して、歓呼の声をあげたのです。ふたりは胸のつかえも、うしろめたさも忘れ、全校生徒の先頭に立って、バレ-ドをしました。気分はまさに〝王者″そのものでした。

 ふたたび軟式テニスへ

「あのとき、優勝できなかったら、停学になっていたそうだよ。」
「停学になるところが、優勝したおかげで晴れ姿で大歓迎を受けたってわけだ。」
部員たちが引きあげたテニスコートには砂塵がまっています。日向と宮崎は、スタンドに中学時代の思い出に花をさかせました。楽しかった中学時代のできごとをかたりあっては、笑いころげました。
 けれど、やがて宮崎がしんけんな顔になっていいました。
「何度もいうようだが、軟式テニスの全日本チャンピオンになりたいんだ。今のきみは、硬式テニスで世界の檜舞台をめざしている。きみなら全世界の選手が憧れているウインプルドンのセンターコートに立つことができるだろう。デビスカップの日本代表選手にもなれるだろう。
だから、もうたのむのはよそう。ただ、もう一度、もう一度だけ、きみとペアを組んでテニスをやりたい……」
 その最後の一言が、日向の心をゆり動かしました。考えたすえに、日向は〝一度だけ″宮崎とのコンビを復活することにしました。そして、関東大会に出場して、みごと優勝したのです。
 けれど、これが新聞に大きく報道されると、慶応大学硬式テニス部の問題になってしまいました。
やはり他校の選手と、しかも軟式テニスの大会に出場したのでは、大学のテニス部としては、ほうっておけなかったのでしょう。
 日向は責任を感じました。と同時に、軟式テニスにも、再び魅力を感じました。日向は大学のテニス部を退部し、硬式テニスを諦めると、ふたたび軟式テニスに復帰することにしました。
 いや、ただ復帰するのではありません。硬式テニスでおぼえた、高度な技術を軟式テニス界に持ちこもうと思いました。たとえば、ローボレーなどは、軟式テニスでは、まったく使われていません。
こうした新しい技術を軟式テニス界に持ちこめるのは自分しかないという自負もありました。けれど、当時の軟式テニス界には、〝テニスは力なり″という考えが主流となっていました。そして、〝テニスとは、ボールとラケット面とのインパクトの正確さである″という日向の考えを受けいれようとはしませんでした。
(自分の考えが正しいことを示すには、勝つことしかない。)
 そう決心した日向は、勝って、勝って、勝ちまくりました。
全国都市対こう優勝、全日本選手権優勝などなど。こうして日向は親友、宮崎の夢も叶えて、軟式テニス日本一の名誉をつかんだのでした。

 1983(昭和58年)夏

毎日やってくる小がらな老人がいます。やさしい目をした老人です。老人のまわりは、いつも笑い声が絶えません。
第二次世界大戦前に〝軟式テニス・山梨〟を築いた一人、日向正善さんです。今、日向さんは、このようにかたります。
「硬式テニスをやっていれば、〝世界の日向〟になれたかもしれない。けれど、わたしは〝軟式の日向″で終わったことに後悔はありません。わたしが始めたローボレーなどは、今の軟式テニス界に、すっかり定着しました。わたしは、自分のやったことに誇りを感じています。」
 日向さんは、ウインブルドンやデビスカップに出場する名声のかわりに、〝ほこり〟という名の満足を得たのです。
 

スポーツ一口メモ

テニスの歴史
 テニスは、十三世紀ごろフランスから起こった。はじめは手のひらでボールを打ちあった。それが手袋をはめ、皮ひもをまきつけ、その後現在のラケットにかわった。当時は、コートテニスといって、まわりを高いセメントのかペでかこった室内コートでおこなわれた。このような古代テニスにかわって、今日の近代テニスが誕生するのは、十四世紀末、イギリスにわたったあとのことである。
 近代テニスは、イギリスのビクトリア女王の近衛騎兵将校、WC・ウイングフィールド少佐の着想によるもので、一八七三年十二月、それまでのコートテニスにかわる、野外の芝生の上でプレ-する競技法を発表した。芝生の上でプレ-するので、ロ-ンテニスとよばれた。
 わが国にテニスが輸入されたのは、一八七八 明治十一年である。当時、文部省に体育伝習所があり、アメリカからリ-ランドという先生が、東京高等師範学校(今の筑波大学)に伝えた。
 当時は、ボール、ラケットがすべて輸入品であった。用具代が高いことから、その後、ボールをゴムまりにかえた、わが国独自の軟式テニスが生まれた。

ウインブルドンテニス大会

 全英庭球選手権大会のこと。イギリスの口ンドン郊外、ウインブルドンで開かれるので、この名がある。
一八七七年の第一回大会以来、二度の世界大戦による十年間の空白をのぞいて、毎年おこなわれている。例年、六月の最後の週から二週間にわたっておこなわれ、イギリス王室をはじめとして、毎日二~三万人の観衆を集め、また、世界の一流選手は、すべてここでの優勝をめざすという、世界長高のテニス大会である。一九六九年から、プロ選手にも開放されるようになった。





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最終更新日  2021年04月26日 16時48分38秒
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