2312611 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2019年04月10日
XML

スケートにかける兄弟 長久保忠雄・文雄・美智子・幸雄

 

 『やまなしスポーツものがたり』山梨県小中学校体育連盟編

 

略歴 小淵沢町出身

 

長久保(ながくぼ)きょうだい

 

●プロフィール

 

 四きょうだいとも、小渕沢町桧向に生まれる。

 

忠雄 昭和9510生まれ。篠尾小、篠尾中を卒業後、峡北高に進む。小中学生のころからスケートになじみ、県内の大会で活やく。高校一年で国体出場。専修大学進学後は、弟の文雄とともに、長久保兄弟として活やく。その後、全日本選手権500メートル優勝や、二連続国体出場などをはたす。

 

文雄 昭和12223日生まれ。篠尾小、篠尾中、峡北高、専修大学と進む。兄につれられて、小中学生のころからスケートを始める。高校二年で、国体500メートル優勝。大学進学後は日本の短距離界のエースとして活躍。全日本選手権500メートル優勝をはじめとして、世界選手権やオリンピック出場など、数多くの国内・国際大会で好記録を残す。

 

美智子 昭和151224日生まれ。篠尾小、小淵沢東中学、峡北高、山梨学院短大。兄たちを見て、スケートを始める。県の中学女子記録を出すなど頭角をあらわし、以後、県の女子国体選手の中心として活躍。

 

幸雄 昭和1955日生まれ。小淵沢東小、小淵沢東中、峡北高、専修大。小学生のときからスケートを始める。高校のとき、国体500メートル3位。その後、国体優勝など、短距離で活やく。

 

 

 

〝下駄スケート″に心おどらせて

 

今では、もうめずらしくなってしまった、冬の遊具のひとつです。スキーとならんで、何十年もの間、子どもたちのあこがれのまとでした。

 

 忠雄たちの村でも、田んぼやつつみ(貯水池)に氷のはる冬が来ると、決まって下駄スケートが、登場したものでした。

 

 ところが、太平洋戦争も終わりに近づいたそのころになると、村という村から、金属が

 

姿をけしてしまいました。お寺の古い鐘までが、とかして兵器にされるために、集められたほどでした。そんな時代ですから、遊ぶための道具が十分そろうというわけにはいきません。まして、スケートの刃は、鉄でなければいけないので、なかなか貴重品でした。

 

 小学校四年生の忠雄は、氷の上をすべりたくて、たまりませんでした。堤には、氷がはります。でも、忠雄のところには、スケートがありません。今度の冬も、結局滑れないかもしれない……。

 

 鉄は手に入らないけれど、木はたくさんあります。格好のよい杉の枝でそりを作って、氷った雪の斜面を滑って遊ぶことが、スケートの代用でした。

 

「スケート、やりたいなあ。」

 

 忠雄たちきょうだいは、ときどき思いだしたように、そういいあっていました。

 

 そんなある日、忠雄が上級生の友だちから、お古のスケートをもらって、いきおいこんで、家に帰ってきました。

 

 それは、スケートといっても、旧式の二本支柱のもので、みかん箱の底にとりつけてありました。箱スケートというか、水上のそりとして使われていたものです。

 

「にいちゃん、それもらってきたのけ」

 

 弟の文雄が目をまるくして、さけびました。

 

「いいなあ。いいなあ。」

 

 妹の美智子も、兄のかかえている〝スケート″にさわって、いいつづけています。

 

「忠雄、いいものもらったな。」

 

 お父さんもよろこんで、さっそくスケートの刃をはずして錆を落とし、下駄の裏に取りつけてくれました。それから古い布をさいて、布ひもを編んでくれました。下駄スケートを足にくくりつけるためのものです。

 

「よーし、これから堤で滑れるぞ。」

 

 堤に氷が張りました。

 

 待ちかねていた忠雄は、夜の明けきらないうちに、下駄スケートをわきにかかえて、近くの堤へと急ぎました。日の出前は、いちばん気温がさがるので、氷もかたくしまっているは

 

ずです。

 

 つつみの表面は、かたいガラスのように氷っています。どこにも人かげはありません。忠雄は、下駄スケ-トを足にくくりつけました。もう、借りたり返したりしなくてもいいのかと思うと、嬉しさが込み上げてきました。

 

 ガ-ツ、ガ-ツ、ガ-ツ

 

 岸にそって、グルッと一周しました。広いこの水のリンクが、全部自分のもののような気分です。風を切って足りながら、忠雄は、

 

「よ-し、うまくなるぞぉ!」

 

と心に決めました。

 

「にいちゃ-ん。」

 

 岸辺で声がします。文雄や美智子がついてきて、手をふっているのです。

 

「あぶないぞ、岸から出てくるな。」

 

 声だけ投げて、忠雄はすべりつづけました。スケ-トのない弟と妹は、うらやましそうに兄さんを見ながら、そりで遊んで待っていました。

 

兄を先頭にして……

 

忠雄はスケ-トに、文字どおり熱中しました。その熱中は、弟の文雄にも、妹の美智子にも伝染せずにはいませんでした。

 

 忠雄が六年生の冬、三本支柱の下駄スケートを買ってもらってからは、練習にもいっそういきおいがついて、朝は暗いうちから、夕方は自分の足もとが見えなくなるまで、すべりつづけました。忠雄は、何がなんでも県下の大会で優勝しなければ……と、心に決めていました。

 

 池の水のゆるむ日中は、水深のあるつつみでのスケートは危険でした。学校ではごく寒い日をのぞいて、堤での練習を禁じており、水をはった田んぼのリンクを使うようすすめていました。しかし、忠雄はどうしてもつつみの水面のほうがすきで、せっせと通いつづけました。

 

兄の行くところには、弟たちもかならずついていき、用具を借りたりおそわったりしていました。

 

「にいちゃん、池の氷、少し緩んでいるみたいなのだけど……」

 

 美智子が、忠雄に注意しました。

 

「なあ一に、へたなやつだけしか、水に落ちやせんさ。な、文雄。」

 

兄の行くと 兄は自信満々でした。

 

兄は自信まんまんでした。

 

「スピードが出ていれば、薄くても割れないものなのだ。」

 

文雄も同じ考えです。

 

ふたりはすべりはじめました。出だしはなんともありません。何周かして、やや中のほうによっていったとき、ピシピシ細かくひびが入り、水がブワ-ンとゆれたと思った瞬間、

 

「あっ、にいちゃん!」

 

「あっ!」

 

忠雄は転とうして、池の水の中に、ズバッとばかり突っ込んでいきました。

 

弟や妹ばかりか、いっしょにいた仲間たちが、スケートをやめて、集まってきました。

 

「だいじょうぶか、忠雄。」

 

「へ、平気、平気。」

 

 忠雄は、わざと元気な声でこたえました。

 

しかし実際は、われはじめた水にはいあがるのはひと苦労だったのです。

 

 岸辺ではかれえだなどを集めて、でたき火がたかれました。だれもが緊張した顔をしていましたが、それは、このことが学校や家に知れたら、と思うと、そのことのきほうがおそろしかったのです。

 

 忠雄は服の表側だけをかわかすと、そのまま家に帰って、何くわぬ顔でこたつにもぐりこんでいました。つかれとあたたかさのため、そのままねむってしまい、夕食に起こされたときには、服はすっかりかわいていました。

 

 さて、こんなにして練習を重ねたかいあって、忠雄は小学生のとき、大会の小学生の部でみごと優勝しました。このとき、賞品にバケツとか箒などの生活用品をもらいました。物のとぼしい時代だったので、勝ったことより、新しいバケツを手にした感激のほうが、よほど大きく感じられたものでした。

 

 その後の大会でも、兄が中学校の部で優勝すれば、一方、弟の文雄も小学校の部で同じ

 

く優勝。ふたりのかよう篠尾小、篠尾中はともに一位になりました。スケートの〝長久保兄弟“の名が、県下に知られはじめるのは、このころからのことです。

 

 中学、高校、大学と、兄の忠雄の進んだコースを、文雄もたどりながら、スケートにおいては、よきライバルとしてきそいあい、やがて弟が先行する兄をとらえ、ついに追いつき、追いこすのです。

 

スケートでむすばれた一家

 

 兄たちの熱心な練習ぶり、大会でのめざましい活やくにえいきょうされて、妹の美智子もまた、スケートに打ちこむようになりました。用具は、美智子のころには、もう靴スケートが手に入るようになっていて、これをはいて峡北地区の大会では無敵を誇りました。

 

かの女の存在が、この地区での小中学生の女子スケートの水準を引きあげるのに、大きな役割をはたしたということができます。とにかく、兄ゆずりの力強いすべりで、たいへんじょうずでもあったので、ほかの女子たちのよき目標でした。

 

四人きょうだいの末の弟、幸雄もまた、兄や姉のスケート姿を見て育ちました。おにいちゃんたちが、下駄スケートを楽しんでいるとき、まだ幼かった彼は、わきで指をくわえて見

 

ていなければなりませんでした。そのかれもやがてスケート靴を履いて、白井沢池などで熱心に練習にはげむようになりました。

 

 上の兄、次の兄、妹、末の弟の四人ともが同じスケートに打ちこんだことになります。しかも、高校、大学(妹は短大)と進学しながら、インターハイ、国体などで次々に活やくし、さらに国内の選手権大会やオリンピックにまで出場者を出すというのは、たいへんめずらしいことです。その活躍も息が長く、社会人となってからも、ずっと続きました。

 

 四人兄弟が小さかったころ、下駄スケートを仕立て直してくれたお父さんは、兄弟全員の競技や大会、合宿、進学などのたくさんの費用を、だまって出してくれました。四人の活躍は、とうぜんお父さんの支持があってはじめて可能だったのです。

 

このお父さんは、スケートはやりませんでしたが、かつて陸上の選手として、初期の国体に参加したことがありました。スポーツというものに理解があったのは、当たり前だったかもしれません。

 

 長久保四きょうだいは、〝スケート一家″として、県内はもとより、全国のスポーツ関係者の間で有名ですが、まさにその名にふさわしい一家なのです。

 

高見沢初枝

 

 この一家に、もう一人数え忘れてはならない人がいます。高見沢初枝、女子選手としてはじめてオリンピックに出場して、健闘した人です。この人は、長久保きょうだいと高校時代、長野県松原湖で練習にはげんだ仲間で、のちに文雄の奥さんになりました。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021年04月26日 16時47分44秒
コメント(0) | コメントを書く
[北杜市歴史文学資料室] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

10/27(日) メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X