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2019年04月11日
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北杜市先人伝 手塚義高

義高は北巨摩郡安都那村(あつなむら・現北杜市高根町)に天保十三年(1842)に長男として生まれる。父は次郎左衛門と云う、母は北巨摩郡大泉村(現北杜市大泉町)の千野虎二郎の次女。十四歳にして父は歿し、家督を継いで一家を成せり。祖先は清和源氏にして新羅三郎の後裔という。昔源氏時代に手塚光盛と云う者があり、その系を同じとする。
 義高は信濃の人、中澤實之進に就いて普通学を修め、後に高根町五町田の近藤精乙氏に就いて漢学を学ぶ。また書は文微明を法とする。家は数代長百姓を勤める。王政維新の後に長百姓を改めて、副戸長となる。義高は誠意をもって事に当たり尽力する行為を認められ、山梨県庁より勉励の賞与を数回享ける。この間学務委員を兼ね、また安都那学校建築にも尽瘁する。これより先に山梨と信濃の間で明治八年に入会秣(まぐさ)場争論あり、この秣場は地域十一村の牛馬の蓄養や田地の肥料に至るまで利用していた。信濃側も占有権を掲げて秣場を利用していた。争論は日を重ねて激しくなり、争闘に発展していき、暴動になり、死者負傷者共に六人にも及ぶ結果となった。義高はこれを聞き及びその場所に及び事を治めて帰り、十一か村の総代となり、信濃岩村田裁判所に訴訟ことを計画する。この裁判の法廷に於いて義高は堂々と弁論を展開し、遂に秣場の使用権利を勝ちとった。近隣十一村は後世まで秣場を享受できた。その後大泉村他五村との間に入会秣場の争論が起きた。この時も義高は甲府裁判所に出訴し、また東京控訴院大審院まで出頭して幾多の年月を経て紛糾を修めた。義高は衆民の困苦を救うために、身を挺して粉骨砕身その力を惜しまない尽瘁に対して多くの人々は感謝した。

高根村(旧熱見村)大柴宗十郎
『峡北地方物故文化人集』一部加筆                                                                                                       
 
大柴惣左衛門の長子として文化十一年(1814)高根村倉山西割に生れる。幼名を長次郎後に三左衛門、宗十郎と改める。家は代々里正であった。後に江戸に出て、国学を平田篤胤に学ぶ。黒船来航と共に尊皇大義を竹内啓、桑原五郎等と唱へ、安政大獄と共に江戸を離れ諸国を遍歴し、京師及薩摩藩士と交遊を深める。幕軍牽制の為輪王寺宮の謁を賜わり、勤皇の旗を会沢元輔、竹内啓等と共に野州出流山に挙げ、岩船山に奮戦中敵手に捕らわれ伴野天明牢獄に入る、拷問数回にて一言も発せず、只皇国の大義を知るのみ他辞なし、従容三そり河畔に於て斬首の刑に処せられる。時に慶応三年(1867)十二月十八日五十五.(宮内省殉難録)
 
 辞世  君かため花と散るこそ嬉しけれ 大和桜のさきかけをして
 
宗十郎詩歌文筆を嗜む、挿花の技にも長ずる。昭和十七年十一月北巨摩郡先覚顕彰会及び氏子総代により、熱那神社境内に宗十郎皇殉難碑を建立する。






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最終更新日  2021年04月26日 16時42分52秒
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