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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年04月11日
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カテゴリ:民間伝承

〔飛騨の祭〕本田安次氏著「民間伝承」昭和22

〔一、数河の高麗獅子〕

 

飛騨国吉城郡細江村字数河の吉村泰平氏のお宅に着いたのは、昭和二十八年四月十九日の午前十一時過であつた。前夜九時二十分に上野をたち、富山をまわって高山本線により細江の駅に着いたのが十時半で、これより村備え付の車により、上りの山かいの道を深く入ること約三十分。所々まだ物かげには雪が残っていたが、日向には蕗の蕾がぞっくり萌え出ていた。飛騨一の宮水無神社の宮司であり、かねて今、神社本庁の常務理事をされている上杉一枝氏の懇篤なおすすめにより、伴われて出かけてきたのであったが、流石に心晴ればれとして楽しかった。御子息、高山市斐太高校の教官千年氏も、細江の駅に出迎え

られていた。

数河はもと、菅生と書いた由。今は上下夫々五十戸程ずつの部落である。夫々に白山神社を祭り、九月五日・六目()、七日・八日(上リに祭りがある。この折、古くから伝えている「高麗獅子」と呼ばれる珍しい獅子舞があるというので、先ずこの獅子を見学の予定であった。

お昼に好物の餅を御馳走になり、小憩の後上の部落の白山神社に参る。まだま新らしい社殿の拝殿正面に、浅葱の幕を垂れ、やがてこれが引かれて、雌雄二頭の二人立の獅子があらわれ、笛、太鼓、銅鈸子の囃子に合せて花々と狂いわたった。曲獅子、天狗獅子、金蔵獅子の三に分れていたが、夫々十三分・十一分・九分程のもの。曲獅子は二頭とも同じに振をするのだが、初め・振出L・足食い・足噛み・逆抱き・坐り車・寝状・あぶになる(前立の者が後立の者の肩軍に乗り、獅子が高くのびる)・後車・うなづく等の振があり、曲芸を演ずる獅子であった。あぶになった時などは、信西吉楽図の「新羅狛」の雌狛にも大層よく似た形になる。

もとはもって不規則に、様々あったろうと思われる曲芸が、ととのい過ぎると思う程ととのえられて一つの舞の形式の中に仕組まれていた。カ演がそのように思わせたのかも知れない。天狗獅子も金蔵獅子も、この曲獅子に様々の獅子あやしの出る形であった。獅子は夫々一頭、前考には山男と呼ばれる天狗面のものと猿と熊、後者には鶏毛冠に醜男面の金蔵に、ひょっとことおかめとが出てからむ。猿と熊とは肩車をしたり、金蔵は横にもんどりを打ったりなどもする。要するに今は珍しい散楽の獅子であった。一通り済んだ後、もう一度曲獅子を演じてもろう。この獅子は、同じものを上下夫々に伝えていて、互に張り合ってきたという。祭りには互に見に来て、その舞い方が一振でも違うとワーツと声をあげる。それで獅子を舞わす者は、仕損じまいとまことに懸命であるという。

獅子の後、見に集まっていた村人たちに特に所望をして、盆踊を境内で踊ってもろう。この飛騨山中は、盆踊も盛んである。皆はやがて輪をつくって踊りはじめた。一拍子二拍子、三拍子の三つの踊り方があり、一拍子が多く行われ、他は今は古い人だけのものになっている。楽器は何もなく、ただ音頭の歌に合せ、時々は踊り手自らも互に歌いつつ踊る。ハソヤ云々という囃子言葉は踊り子がいう。振は何れもゆるい六拍(十二拍と見てもよい)で、静かなよい踊りであった。仮装をする者もあるが、通常はそのままで踊るという。山深い所に来て、もっとゆるりとお話も承りたかつたが、次の予定にせきたてられ、村の人たちの折角のおもてなしも中途にして再び村の車に乗る。

 

〔二、古川まつり〕「民間伝承」昭和22

 

約四十分で、古川の町へ入る。人口八千六百余、飛騨盆地の小都市であるが、周囲はすべて美しい山、町は京都風に碁盤の目につくられている。町の中に堀が流れ、町中はあまり広くはなく、家のつくりに趣がある。何れも軒毎に屋根のある柱を立て、花をふき、祭礼提燈を吊していた。町の素封家渡辺久衛氏宅に御厄介になる。

午後四時、神輿の渡御があった。町から僅かはなれた丘の上に鎮まる気多若宮神社から町の中央の御旅所へと渡るのである。五色の布を下げた神を先頭に、獅子舞、神楽、三番叟以下の屋台をあらわす旗(この折は屋台は引かず、夫々の屋台の名を誌した旗を持ってお伴につく)、闘鶏楽、菅笠裃の警固大勢(二列に)、雅楽・巫女・舞姫等の行列で、次に神輿二基、神主がその前後にお伴をする。後にまた大勢の警固がつづく。

屋台は町々に早や飾り立てられていた。昨年も一昨年も雨のため引き出されずにしまったというが、今年は上天気で、屋台の上には子供達が大勢乗り込み、しきりに囃子をしていた。屋台毎に旋律の異なる囃子があり、これを夫々引くときも止っているときも囃す。もう一種「引きわかれ」と呼ばれる曲があり、最後の引き仕舞に奏せられるが、町の人達には別れを惜しむように聞えるという。哀調を帯びた屯ので、あつた。しかしこの曲も、名称のみ共通で、屋台毎にその旋律は異っていた。六孔の笛、大小太鼓、銅欽子で囃し、錘鼓は用いないが、やはり砥園囃子などから転じたものに相違なかろう。これは子供の役

で、十五日頃から各家庭がまわり番に宿をして練習をする。屋台の数は、復活出来ないでいる三番叟屋台を除いて九、これを旧町内七、八百戸で維持している、小さい町内では、二十八軒で一台を負担しているという。その意匠や飾りは豪華である。

 夜、宵宮の行事を見に行く。御旅所は、そのための一棟が出来ており、平常は戸を閉しておく。神輿をかざり、その前に舞台をもうけ、祭式の後、朝日子の舞と仕舞二曲が奉納された。

 

〔三、起し太鼓〕「民間伝承」昭和22

いくらかでも休むようにとのことで横になる。起し太鼓の神事は、夜十時からはじまるという。夜行や、朝からの疲れで、いつか寝込んでしまっていると、もう時間ですと云っておこされた。十一時近くである。急いで仕度をして行ってみると、榊をとった神職が待っておられた。雑沓の町を、その後について行く。

やがて、主事当番の町内に来てみると、沢山の迎えの提燈が出ていた。高張提燈は各町内の代表のもの、小さな提燈が当番町内の家毎のもので、これは青年は多く太鼓かつぎに出るので、主に婦人や子供や年寄が持って出る。この提燈群に迎えられ、道路の中央に据えられたのは、正面二間、長さ四間に井桁に組んだ丸太の上の櫓に据えられた大太鼓である。この大太鼓には荒菰(こも)が巻かれ、皮には三つ葵の神紋が黒く画かれている。この太鼓の前には幣束が立ち、大酒樽が二つ。また供物様々あった。神職はこの前に至って、正面をはらい、また、人々を祓う。

左結び或いは前結びの白鉢巻、白布を広めに腹に巻いた、白パンツ、素趾足或は白足袋の裸体の青年達大勢が、神主の礼拝の終るのを待ち、櫓に入ってこれをかつぐ。二人の者が素早く太鼓にまたがり、脊中合せになり、棒を杖手に持って、裏表の太鼓を交互に一つ調子に打つ。その各々振り上げた合間に、下に立つ者が打つ。こうして、翌朝屋台の練り歩く道を、競いつつ打ち歩くのである。

先まわりをして、とある町角の家の二階に招せられる。辻には篝火(かがりび)が焚かれ、附太鼓とて二間余りの丸太の中央に小太鼓をくくりつけたものを持った十数人の者が、「めでた、めでた、の若松さまよ」を歌いながら、暖をとっていた。また一組の附太鼓がやってきた。これらは、当番の町内を除いた各町内から一つ宛出るもので、こうした辻々の横合から出て

は大太鼓」のすぐ次に割り込もうと争うのである。古くはこうして、大太鼓の次々に着き得た順によって、屋台の練り行く順番をきめたという。今は籤による。町長も見えて色々説明して下さった。

太鼓の音が近づき、やがて沢山の擾燈が見えてきた。その様子は、彌彦の提燈神事を思いおこさせられた。提燈の数は先程よりも増えていた。皆々瀞かに、嬉しそうに、幾列にもなって歩いて行く。やがて大太鼓である。

後からきお弓附太数群に押されて、波のようにゆれている。二百人もの裸群が櫓にとりついていることとて、動きは潮の差し引くようである。あわやという間に横合から附太鼓の一群二群がとび出してきて、大太鼓と他の附太鼓群の間に割り込み、ここに潮がぶつかり合ったように、町いっぱいに更にはげしい揉み合がはじまる。大太鼓は押されまいと、却って、行ってはまたたぢたぢと戻る。後から警固を交えた祭見の人々がののしり合いながらついてくる。

しばらく争った後、さしもの群も通り過ぎて行った。途中で一度休息があるという。招せられるままに町長のお家に寄り、神酒を招ばれ、もう一度先まわりをして、他の町角の二階から、更にもみ合うさまを見た。このようにして道を清めてまわるのである。二階を下りしばらく群葉について行く。実は先導の提燈の中に入りたかったが、太鼓を追いこすことなどは到底出来ない。それでも警固の人達が絶えず自分の前後についていて下すった。やがて橋を渡って行く太鼓を見送って宿に戻った。

この神事は「起し太鼓」と呼ばれるが、また、「勇み太鼓」、「目覚し太鼓」などとも呼ばれる。もと夜半の正十二時にはじまったもので、神事の開始を知らせるために人々を起す太鼓とも、昔神輿の通る道に熊猪の類が出没したのを威嚇するためにはじめられたものとも伝えている。

寝についてしばしあったかと思う間もなく、太鼓の音と大勢の声が近づいてきた。時計を見ると三時、起し太鼓が戻ってきたのである。当番の町へ戻るのだが、この町内だけは、都合で行きかえり通るという。

明くればこの日も麗らかな上天気である。渡辺氏より町を御案内いただく。国分尼寺の礎石を一つ運んできている照耀山円光寺、そこに大太鼓がまだ櫓のまま置いてあって、獅子舞の一行が舞い込みをしていた。それよりハイヤーを雇い神社へ参る。隣り合せの忠魂碑の立つ公園にまわって町を見る。桜の蕾はようやくふくらみかけていた。鶯の声がきこえる。美しい周囲の山々。

もと屋台の上に機関人形が出た。これが三つ程残っており、古老は今も操れるという。町に戻るとその人形を見にゆく。一ははじめ花籠を持って出る獅子舞人形。次は三番叟、他は寿老人の背中にはしごをかけ、唐子がその頭の上に乗って踊をおどると、寿老人の持つ亀の甲が二つに割れて中から鶴が飛び出すという仕掛けのものであつた。操り手は後にかくれて糸を引く。謡がかりである。

十一時、神與の渡御を、渡辺氏の家の前で拝した。神輿の後に屋台がつづく。無蓋の神楽屋台の中央には、二羽の金の鳳風の飾りのある直径三尺の吊太鼓を据え、その左右から長烏帽子の楽人が、時折手欄から仰にのけ返りながら太鼓を打てば、それにつれて小太鼓や笛を囃す。その囃子に合せて、地上では雌雄二頭の獅子が舞う。その屋台を先頭に、何れも金色燦然と、九台の屋台が四月の太陽に照らし出されてつづいた。お家の前で、闘鶏楽も獅子舞も、夫々一舞あった。

 

〔四、飛騨一の宕の神事〕「民間伝承」昭和22

午後二時、渡辺氏に深く御厚意を謝し、ハイヤーにて嵐村へと向う。途中高山市に一寸降りて、橋から公園の山の方を見る。宮村の水無神社に着いてみると、ここの闘鶏楽の人達が準備をして待っておられた。昇殿参拝の後、闘鶏楽、神代踊、獅子舞が、氏子の有志によって演ぜられた。闘鶏楽には、鉦の打ち方が色々ある模様である。今は菅笠を冠るがもとは鳥毛であったという。念仏踊に似ている。神代踊の歌のおもしろさをしみじみと聞きなおした。白菅踊、池田踊など名曲である。新島の大踊は、大原騒動のときここから流された人が伝えたものと云う。成程と思う。しかしそうとすれば、もとはここにもつと色々の歌があった筈であるのに、あまり伝わらないのは惜しい。

この夜は神社に一泊、繭宜熊崎着親氏より色々興味深いお話を承る。飛騨の湯立祭の様子も大方判った。神社には釜も保存されていた。

 

〔五、神楽丘〕「民間伝承」昭和22

 

翌朝乞うて、神楽丘を案内していただく。何と美しい丘であろう。ハイヤーの中から、あれと指された丘は浮島のように盆地の中に浮出でいた。空から見れば、瓢を二つに割って伏せたようだという。その口の所から上ると、頂上は約五畝程の広場になっていて、奥に三間に二間の土壇があり、

更に一間四方一尺高さに石が畳んであつた。御座山とも御旅所とも呼ばれるという。

九月廿五日の例大祭に、神輿が渡御になり、先の壇にしずまると、ここに古式の神事が行われる。周囲は老松、その枝をすかして飛騨の山々が見晴される。まことにこの丘は、山々にとりかこまれた静かな盆地の只中にあった。どちらを向いても、飛騨の山々の美しさに、容易にこの丘を立去ることが出来なかった。

またも彌彦の燈寵神事を思いおこす。あの花燈籠にすっかり囲まれ、浮島のようになった舞殿の中で、喜々楽、天犬の両雅児の舞を、不思議な思いで見た折のことを。ひだびとと美しい飛騨の山々と!神楽丘と呼ばれる所は、他にもある筈だが、やはり「御座山」なのであろうか。

やがて東に車を走らせて、水無神社の本地仏のある一位山往還寺を尋ねる。庭内に一本の老桜のある、静かな寺であった。小さな左方の堂に鎮もる本地仏は阿彌陀如来。

 






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最終更新日  2021年04月26日 16時38分37秒
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