カテゴリ:民間伝承
〔下呂の田神祭〕「民間伝承」昭和22年 熊騎氏に駅まで見送られ、十一時二十四分の汽車で下呂へ。氏子総代の田口義男氏が出迎えられていた。駅近くの水明館というのに案内され、温泉に入り、昼を招ばれる。下呂は中に益田川を挾んだ美しい温泉町である。ここまで来ると桜は満開で、宿の庭の花はしきりに散っていた。やがて八幡宮へ案内される。境内の天然記念物の大杉は惜しくも昨年の町の火事に飛火がして、半枯れてしまった。その際枝が拝殿に倒れて屋根をこわし、いま拝殿はとり払われている。 社務所に祭の関係の人遠が集っておられた。床の間の前には、美しい本花笠と寄進笠とが一つ宛飾ってあった。記録で、読んだだけではどうしても目に浮ばないので、残っていたら一つ拝見したいと連絡してもらったところ、わざわざあの手の込んだものを作っておいて下さったのである。 ここの田神祭は、毎年二月七日に始まり、十四日までつづく。十四日が本楽である。戦争中も一年も休まなかったという。何よりも珍しいのは、古風な、美しい歌を数々伝えていたことである。先ず歌を唄っていただく。 細々とねむげに、同じ調子の太鼓とささらに合せてうたわれる。まあよくもこれらの歌が残ってきたものだと、色々な意味で驚かざるを得なかった。やはり行事中に、はげしい花笠の競い合いなどがある故であろうが、ともかく一週間の試楽も略されてはこなかったのである。明治初年に絶えた三河古戸の田能の能の、今にしては臍(ほぞ)をかむような口惜しさを、ここで、繰返さずに済んだのはうれしい。 ○広い渚で貝ひろを 小貝ひろを 貝ひろを ○橋の上に降りたる鳥は何鳥で さふよの何鳥で 時雨のあめにぬれしごれ ○田之神は今こそまします沢ロヘ さふよの沢ロヘ 濃い紅を袖笠に着て ○早乙女の立よる顔は花かとよ さふよの花かとよ 夏咲く花は卯の花でさふよの ○円之神の精進の肴に西の海 さふよの西の海 九穴の貝を見るを肴に ○入日を見よ 山の端に 田尻ぞ 月の影 ○沖にぞ 波はあり 鯨ぞ しをを吹け
しらべの高い歌が、五十数首もある。 祭の主要行事は本殿前に注遠を張って行われる。外に出て、ざっとその型を示していただいた。記録に踊るとあって、その様子が少しも想像出来なかったのも道理、踊りらしい踊りではなく、同じ一定の単純な振を歌に合せて繰返すに過ぎない。それはたしかに古風な型、ではあるのだが、幾らか崩れてもいるのであろう。あっという間に太鼓の刻み打がはじまったと思うと、早乙女の美しい花笠を、守と呼ばれる附添の者がぬぎとって、これを四つに折ってつぶし、一かかえにして踊子 の懐に入れてしまった。これに赤い腹帯をしめさせる。そのまま孕み女の姿になる。今日はこれを型だけにする約束であったのだが、連絡が不充分で、あったのか、太鼓の音で、守が無意識にやってしまったのか、息吐く間もなく、あの手の込んだ美しい花笠を、惜しげもなくまるめこんでしまった。早乙女の立姿を写真にとりたかった。そのまま鉢かつぎ姫の赤い椀をかついだような面白い姿であつたのだが。(笠はなおらなかった)孕み女の振と歌はなおつづいた。 踊歌は飛州志にその一部が出ており、斐太後風土記には全部が出ているが、此度拝見し得た田口氏所蔵の正徳本とは大分異同がある。そして正徳本の方が古風で、より正しい。 この夜は氏子の人達の厚意で、晩餐会が開かれた。おかげで町を散歩することも出来なかったが、 踊歌は早く再び八幡様に行き、近くの田口氏を訪れ、説明をお聞きしながら、三頭屋の様子、水垢離をとる池、行列の通る道等をつぶさに見た。宿まで川添いの道を戻る。色々の種類の桜が並木をなして咲きほこっている。思わぬ花見をした。そよとの風もない。対岸の家の煙が真すぐ立昇っている。 美しい飛騨の山々! こうして九時、(上杉氏は八時ので、郷里にお寄りになるため戻られた。)田口氏をはじめ、有志の人達に見送られて、この美しい町とも別れを告げた。(早大教授) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月26日 16時38分10秒
コメント(0) | コメントを書く
[民間伝承] カテゴリの最新記事
|
|