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2019年04月11日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

甲州金の極印松木氏の由緒書(分かり易くした)

 

先祖松木次郎三郎正利

 

甲斐国八代郡上浅利村飯室(西八代郡豊富村)の郷、浅利与市義遠の末葉にて代々右の村へ住居して参りましたが、原因にどんな訳があったのか、本家まで不和となり、同郡中之郷に別家し、それより姓を松木と改めた郷士でありました。双方の当住(主人)が不通のため家の旧記は分かりませんが、そのようなおりに次郎三郎は、武田信玄公の御代の天文中より御陣中の御用を折々おおせつけられ、永禄十二年二十五日に御朱印をたまわり、勝頼公の御代、天正五年二月晦日に御朱印をたまいて、只今所持しております(「甲斐国志」所載の判物)

次郎三郎の男子には三太夫、市左衛門、七右衛門、五郎兵衛、七郎兵衛とあわせて五人あり、三太夫は山梨郡小瀬(今の甲府市小瀬)に居住していたが、病身ゆえ独身のまま早世の由にございます。

市左衛門、七郎兵衛の儀は、のちのち江戸表へ御奉公にまかりでました。次郎三郎は三男七左衛門、四男五郎兵衛を召連れて由緒もこれあり、府中柳町へ転住して、その後刺髪をあらため小瀬村へ引込んで隠居したが、御朱印地所は分かりません。

松木七右衛門

 

右は次郎三郎の三男にて相続後に刺髪を改めたのは存じおります。甲府町の検断役をおおせつけこおむり、天正十年午年に、同役衆三人一同は駿府へ召出されて権現(家康)様に御目見え申L上げ奉り、御ねんごろの上意をこおむり領物をおおせつけられました。

同年八月、御入用金の節もなお改役の者共が右左口村までまかりいでて、上曽根村竜花院に御逗留の折々ご機嫌を伺い、御駕籠の節も府中まで御案内したのは存じております。

五郎兵衛は御用を相勤めて当国の通用金ならびに国枡(甲州マス)を奉り上覧に供しました。その節、判屋の儀についておたずねにたりました。武田御歴代の先祖より勤めおった由を申上げますには、成瀬隼人守殿をもって先儀を相届け、なおまた五郎兵衛に相勤めます様おおせられました。

しかるに文禄年中に当柳町へ引移り、両人たのんで帯刀で勤めておりましたところ、その後召出されて右両人ともに江戸表へまかり越しましたが、このことも存じております。 伜が初年にて相勤めおぼつかぬゆえに、巨摩郡乙黒村郷土山本八左衛門の伜茂兵衛と申す者を養子に貰いうけて跡目を相続いたしましたが、しさいがあって山本法号清純と申上げました。五郎兵衛のあとの判屋のことは伜の弥右衛門が相続いたしました。

柳町一丁目の南角両側にて間口十三間の屋舗を判屋処ととなえました。

しかるところ寛永年中に右弥右衛門が間屋役を仰せつけこおむりましたので、判屋を勤めまするにも御用に差支えがありましたので、判屋の役はほかへゆずりますよう御沙汰がありましたが、判屋の儀は由緒もある役目のことゆえ、ほかへゆずることは御免にして下さる様に申上げましたけれども、間屋役勤め中に判屋を相勤めるのは不都合なので当分の間ぜひゆずるよう仰せきき、よんどころなくおうけ申上げて妹婿の柳町組の庄三郎にゆずり、極印ならびに御奉書とも相渡し申しました。

一、右屋舗の十一二間口のうち、戸口で四問分で相済むよう仰付っけこおむり、弥右衛門の儀も極印へ立会いますよう仰付けこおむり、立合って極印をつかまつりました。

しかるところ、御届けどおりとどこおりなく吹き納めましたのに、どんなまちがいがあったのでしようか、右極印は甲府御奉行の竹川監物殿、渡辺弥兵衛殿へ御取上げに相成る由、そののち判屋の儀は、武井村郷士善太夫へ、婿がその一門より出ている竹川監物殿からゆずり渡されてしまいました。しかるに善太夫儀は段々に身上が不如意となり、同郡木原村郷士次右衛門へまたまた婿の引出物としてゆずられましたところ、これまた身上不如意とたり所持なりがたく、巨摩郡宮原村郷士桜林源十郎へ仰せまかせ、婿引に相ゆずり、それより松木源十郎が今もって判屋舗を所持つかまつり、甲金吹足したどの御用も仰せつかっていました節は、古来の由緒をもって御町御支配どおり前事の御用を仰付かりました。

 

一、 問屋弥右衛門は寛永二十年()に病気になりましたので孫の伝右衛門に御役を仰せつけ、郭内ほか四千坪、毎年、御城米を百俵公許借の仰せつけ、しかるところ延宝六年

戊午年に伊右衛門落馬いたし、役目つとめがたくなりましたので、甥の松木甚右衛門へ同九月二十九日に跡目を仰せつけられました。同八年三月二十二日五人扶持をこおむりました。

右は幼年の時より父物証うけたまわりおきました趣により、このたび一記しおくものなり。

 

享和和三(1803)年癸寅三月 

松木成山正弥花押

山本金左衛門殿

 

以上、タライまわしされた極印のゆらいが、この由緒書にあきらかだ。また松木成山については甲斐国志でも取り上げている人物である。






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最終更新日  2021年04月26日 16時33分36秒
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