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2019年04月11日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

四ツ~七ツ時まで宿打ち、甲金の吹床から埋蔵金出る

 

甲州金は、祖父が甲斐の武川(北巨摩)出身で、老中に昇進した柳沢吉保が宝永元(1704)年に甲府藩十五万石に封せられた際に公許を得て、同四年から享保十二年まで、十一年問にわたり吹替えをおこなった。

甲金の吹床については、「兜山晶雑記」に

「・…-佐渡町(甲府市)にて慶長小判を吹出す。是を佐渡小判といふ。甲州も同小判、これより佐渡町という。その後、宝永年中、甲斐守殿、甲重金、甲安金を佐渡町にて御吹出しこれあり。また、天和年中の頃までは、東は金手町、一条町、和田平町、東光寺村、西は工町、伊勢町、近習町ニツにわかれ、東光寺村に場所をたて、四ツ時(九時)より七ツ時(四時)まで石打ちいたし候。貞享のころより御法度に相なり」とある。

 

この東光寺からでた埋蔵金は後記の通りだ。

 

元文四(1739)年には、横沢町でづく銭がつくられた。元文五年七月から翌年の五月まで飯田町でもづく銭が鋳造された。これが「銀田銭」といわれることは述べるまでもない。

 

江戸時代の歴史年表である「武甲年表」(斉藤月峯)にも、天正十九年の項で、

「〇十二月関八州通用のため大判小判を造らしめたまう」

とあり、以後も慶長金など貨幣の記録があるが、また異色の見聞集である津村涼庵(171188)の「譯海」にも、おおく貨幣の筆録があるので、貨幣研究の重要参考にたる。

(前文略)-甲斐には、武田氏の時製ありし金、いまなお残りて甲州のうちにては、いま時も文金、古金にまぜ通用する事とぞ、壱朱金、二朱金、壱分金と三品なり。壱朱といふは二朱の半金にあたるものなり。三品とも金にて鋳たるものなり。世に甲州金と称するものこれなり。

 いま時はこの金、甲州にても不足になりて、百両主,世つかのうち二分ばかり甲州金を交遺ひて、八分は文金、或は二朱銀を用ひる事になりたるとぞ、---

なお「謂海」からひろうと、

「大判をはじめ吹立てられたるとき、壱万枚を限りとせられて、いま天下に通用するはこの数のほかなし。大判所祷してもたしかなる持主書付などさしださざれば、両替屋みな引替へず。両替ことのほかむずかしきことなり。ただし大判の書判少しも墨色はげおつれば通用せず、それゆえ墨色落消するときは後藤かたへ相願い書判を書直しもらふなり。この書直し料大判壱枚に付金壱歩づつなり。今時は壱両も弐両も書替料取るなり。古金は引替のこと両替屋にて難せず、但百両につき元文小判百六十五両に引替ふ。六割半の増なり。元文小判壱両に付き目方は一二匁五分あり、古金は壱両目方四匁八分、当時南鐘壱片の目方三匁七分たりしと、江戸中期にすでに古金は稀少価値をもっていた。

墨が剥げれば両替えがきかぬとあっては、湿気も持ち運びも不便なもので、通用の便には程遠いお宝であったようだ。

同記の甲州金と江戸判金の種類もくわしい。

 

「江戸に下金商売免許の老六十六人あり、上より符をたまわりおるなり。世間に流布する所の金の品三百六十五種ありとぞ。このうち古金と称する品四士二種、慶長金も此品のうちなり。慶長いらい通用金は四十四種より段々ありという目今世、通用の小判は銀を四歩ほどまじへたるたりとぞ。甲州金壱歩たりとも潰す時は、公儀へ訴へつぶす事なり」

 

以上のほかに、中国地方の銀札の不使や貨幣についての筆録は貨幣研究に重要な資料だが、またにゆずり、甲州金は金細工にかなり化けていたものだろう。

 

万民が金銀を普遍価に持てるようにたる以前の戦国時代は、甲州においても、ほとんど高級武士の恩賞用、寺社への寄進、兵器鉄砲などの交易通貨であった。

 

<紙幣と甲州金と貨幣の呼び名>

永正十八(1521)年六月十九日、信虎の父信縄は、伊勢神宮の御師幸福大夫に「----初刀一腰金鞘、金納之候」(「甲斐国志」)とある。

前記の「慶長見聞集」にある道具からはずし金を何両としている点で、黄金造りの分量には両目が使用されたものと考えられる。

献金が、甲州の黄金を練金したものかどうかは、武田氏の一級資料とされている「王代記」(山梨市窪八幡宮の別当が代々書きついだ)には、「明応七(149)壬十月、此年八月廿日、日夜大雨大風、草木折、山朋加同廿四日辰剋、天地震動シテ国所女損、金山クツレ、加々美クツレ、中山損」とあり、これは金山がすでにこの頃に存在したことを示すもので、さらに中山とは中富町(山梨県南巨摩郡)旧中山郷の金田千軒と、考えられてくる。

 

これは前稿で記した「たたら遺蹟」から出土した溶金や、江戸時代から現在まで甲州の各地から出土する板金や溶金などからみても、信縄よりはるか上代にさかのぼって金山もあり、溶金の技術もあったとみて非難は受けまい。

天文十三(一五四五)年、甲州から京の臨川寺へ黄金を運上したのは前記のとおりで、切り使いの板金である。

天文十四(一五四五)年、武田晴信は近江の多賀神社の祈願状に「----黄金二両奉献----」とあるが、この黄金が溶金か板金かは、練金とみても、大過はあるまいと思う。

 

貨幣研究家が詳しい「古事類苑」では「古へ黄金幾両トイフハミナ砂金ノ掛目ニシテ、銀ハ東鑑二南延幾ツナド見エタリ、然ルニスデニ冶金ノ事アレバ其形制ナキコトヲ得ズ。ヒルモ金ノ如キ々サシク鎌倉ノ時ノモノト見エー…」とある。

 






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最終更新日  2021年04月26日 16時32分26秒
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