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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年04月16日
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カテゴリ:山縣大弐

山県大弐(やまがただいに)の歴史 山県家(やまがたけ)の人びと

 

 山県家は甲斐源氏の祖、新羅三郎義光の流れを継ぐ名家で、

 古くから甲斐の豪族として栄えたと伝えられています。ですが長録のころ、山県出雲守が戦死し、後継者がいなかったため山県家は絶えてしまいました。

 やがて永録年代になり、山県の名跡を惜しむ声が起こり、武田の一族飯富兵部の弟、三郎兵衛昌景を当主にして山県家を再興させました。ゆえに昌景を山県家中興の祖といいます。昌景は武田信玄の信望厚く、武田の重臣となり、参謀の役割を果たしていました。

 やがて、武田信玄は上洛のため京都を目指しましたが、途中病に倒れ目的を田`たすことはできませんでした。

 信玄亡き後は勝頼が跡を継ぎ、昌景は勝頼の補佐役をつとめていました。

 しか勝頼は、昌景の諌言をしりぞけ、上洛を急ぎました。そのため武田軍は、長篠の棚にはばまれ、織田信長の鉄砲隊に集中攻撃を受けて大敗しました。

 昌景は、主君勝頼を助けるため自ら先頭にたち敵陣に突入し、壮烈なる戦死を遂げました。

 やがて信長は甲斐に攻め入り、武田の一族をことごとく滅ぼしてしまいました。その際、昌景の一子が難をのがれ、北山筋篠原村(竜王町篠原 現甲斐市)に身を隠し、野沢の姓を名乗って郷士となりました。

 やがて時代が移り、何代かが過ぎ沢右衛門が野沢家の当主になりました。沢右衛門は村の豪農の子山三郎を養子にし、娘と結婚させました。その二人の間に生まれたのが山県大弐やその兄弟たちです。

 父山三郎は働き者で実直な人でした。家業に励みながら、寺に墓地用地を寄進したり、袴腰天満宮などを建立しました。ですが、山三郎の念願は武家になることでしたI武家になって山県家を再興する。

 しかし、平和な時代に家来を召し抱える武将などめったにいませんでした、可能なことは、誰かの武家株を譲り受けることでした。

 そんな折、村瀬という人か武家をやめて江戸に帰りたいという話を聞きました。山三郎は早速交渉して、村瀬から武家の株を譲り受けました。山三郎は、村瀬清左衛門を襲名し、名を為信と改め、家族とともに、篠原村から甲府百石町の武家屋敷に引っ越しました。

 

山県大弐の歴史 少年時代

 

 山県大弐は、享保十年(1725)甲斐の国篠原村に生まれました、生家の位置は(現職王町篠原)祖母川沿いの六本稀の辺りだったといわれています。

 大弐にはいくつかの幼名かありますか、三之助か通称のようでした。兄は昌樹といい、姉や昧もいました、父が村瀬の家を継ぎ、甲府城の与力となり、百石町の武家屋敷に移って間もなく、弟が生まれました。父の為信は、武家になってはじめて生まれた男の子たったため、武門と名づけました。

 ですが、生まれてきた武門と引きかえのようにすぐ下の妹が亡くなり、屋敷近くの龍華院に葬られました。

 享保十八年、大弐は加賀美光章(こうしょう 国学者)の塾に通い、本格的な学問を学びはじめました。加賀美光章(こうしょう)は汗戸の武家の子で、小河原村日吉神社の神主の養子になった人です。

 京都に留学し、数々の学問を学んで戻り、神社の境内に環松(かんしょう)亭という塾を開いたのを聞き、大弐は真っ先に駆けつけて、兄とともに弟子入りしたのでした。

 大弐は、生まれつき賢い人でしたから学業の成績は優秀で、やがて加賀美塾の三傑といわれるようになりました。

 加賀美塾で五年ほど学んだ大弐は、更に勉学を志し、五味釜川の塾生になりました・釜川は藤田村(若草町藤田)の人で、大弐より七歳年上でしたが、江戸に留学し近代的な江戸学問を教えることで評判でした。

 大弐は、往復五時間もかかる道を一日も休まず通いつづけました。釜無川(現富士川)の堤を歩きなから、兄と歩んだ懐かしさを思い浮かべたに違いありません。

 元文三年の六月五日、長く患らっていた父が亡くなりました。遺骸は、龍華院に埋葬しました。兄の昌樹は、村瀬清左衛門為清捌と改名し、父の役職を継ぎましたが、あまり武家は好きでないらしく、日ごろから不満ばかりいっていました。

 年号が変わり寛保となりました。大弐は、京都の学問を直接学びたいと考え、兄とともに京に学びました。でも、憧れの京都は荒廃し、天皇の権威は失われていました。

 大弐は、高倉院、綾小路などの学塾をまわり、占学や神学、陰陽道、火文学など、後に大弐の学問の基礎になる学問の勉強に励みましたが、皇室の衰退を嘆く心の方か強かったようです。

 

山県大弐(やまがただいに)の歴史 武家を継ぐ

 

 京都の学問を学び、甲府に戻ってくると兄が病気で休んでいました。兄は、どうしても武家は嫌だというのです。大弐は、与力を弟の武門に継がせようとしましたが、いろいろの事情かあって、仕方なく兄の後を継ぐことになりました。

 大弐は、村瀬為貞と改名し、長谷川讃岐守の配下に入り、山手組の与力になりました。延享二年、二十一歳の時です。

 兄の昌樹は、与力をゆずると途端に元気になり、飯田新町に引っ越し、やがては竜王新町の百姓、市郎左衛門方に身を寄せ、のちにここを買って百姓となり、晴耕雨読の生活を楽しみながら過ごし、やがて名を斎宮と改めることになるのです。

 ここで甲府の城のことを少し述べます。当時、甲府は幕府の直轄で城主がいませんでした。代わりに、鎮台と称する勤番が二人いました。山手組と追手組かそうです。舞鶴公園の北に山手通りというのがありますが、山手門のあったところだといわれています。大弐は、その山手組の勤番長谷川讃岐守の配下でした。

 ちなみに、百石町の武家屋敷の隣にいる柴田丈左衛門正武は、追手組に属していましたから、仲の良い隣人ながら、同じ勤務につくことはありませんでした。

 さらに申しますと、与力の上には勤番士がいました。たいがいは旗本の二三男坊で、江戸から追われてきた者です。ですが、生活は安定していて、勤務地手当のようなものがありましたから、結構楽しい生活をしていたようです。ついでに与力のことを中しますと、大体が八十石(六十キロ俵で二百俵)ぐらいの収入でした。まあまあの収入ですか、勤務は五日に一度出仕すれば良く、のんきな勤めでしたから、学問好きの大弐にとっては、またとない勤めであったと思います。

 大弐は、勤めの傍ら本を読んだり書いたりしていました。与力の仲間は江戸からきた者か多いため、結構知識人かおりまして、与力の神様といわれる吉川新助などもそんな中の一人でした。学問ができ訟獄のことに明るいため、大弐は新前を度々訪ねては教えを受けていました。また、新前の子田中嘉卿は加賀美塾の同僚、後々大弐の弟子になる人です。

 

山県大弐(やまがただいに)の歴史 武門事件を起こす

 

 延享三年八月七日、暑さに負けて床についていた母が亡くなりました。母は武門思いの親で、死ぬ間際まで武門のことを心配していました。それというのは、自分より三つも年下の柴田正武の子どもと一緒になり、遊びほうけていたからです。

 父も、武家になって初めて生まれた子に期待をかけ、武門と名づけてだいじに育てましたが、武門は学問も武芸も嫌いで、兄たちに似ない子だったので、母はいつも心配していたのです。

 その武門が、とうとう事件を起こしてしまいました。飯田新町の名主、五兵衛の伜新三郎とけんかし、刀で切り殺してしまったのです。そして、そのまま何処かに姿をくらましてしまいました。

 武門がどうして新三郎とけんかをしたのかは分かっていません。ですか、たとえ武家時代であっても、人を殺すということは大罪です。ましてや相手は名主の子、代官と通じていたからたまりません。

 代官は、早速このことを勤番所に貳えると同時に、江戸の役所にも飛脚を走らせました。そんなことで、事件はたちまち広がって、その日のうちに役人が大弐の役宅にやってきました。

 役人は大弐に向かい中渡書を読み上げました。それによると、武門をすぐに探して役所に連れてくるように、もしすぐに見つからなかったなら、三か月だけ猶予を与えるが、それでもなお見つからずにか月を過ぎた場合は村瀬家の家禄を没収するからそう思え。という達しでした。そして、町の辻辻に触れ書きが立てられ、大弐の一家も罪人扱いをされるようになってしまいました。

 大弐は、兄の昌樹とも相談し、八方手を尽くし、武門を探しましたが、どこにどう隠れたものか、いくら探しても武門を見つけることはできませんでした。

 そのうちに期限の六か月がすぎ、大弐は村瀬の家を明け渡すことになりました。隣家に住む柴田正武や、先輩の吉川新助の嘆願もむなしく、大弐は役所を追われ浪人になりました。百石町の武家屋敷で引っ越しの荷づくりをしていると、新助か荷車を引いてやってきて、自分の家にくるようにといい、大弐夫婦を連れて帰り大弐の世話をしてくれました。

 

山県大弐の歴史 浪人となる

 大弐はヽ折助の家にご釈になりながらなおも武門を探しました。甲州は山に囲まれた国ですから、そう簡単には逃げられない筈です。誰かの助けがなければ到底隠れ通せるものではありません。代官もそう考え、昌樹に剛げをかけました。大弐も、あるいは兄か、と考えたこともありました。ですが昌樹はそれに対しては何も答えずに、沈黙していました。

 大弐は、自分か職を失ったことより、弟の不甲斐なさを嘆きました。男が喧嘩をするには、それなりの理由があってのことだからと思ったのです。

法廷の場で、堂々の申し開きをしてもらいたいと思ったのです。誉れ高い山県の家に生まれた者の誇りを惜しんだのでした。

 吉川折助は、大弐の苦しみを察し何もいいません。ただ、大弐が江戸に行きたいとしきりにいうので、多少の助言をし、これからの生活のことなどを述べました。

 「村瀬殿、江戸に出たら医業をなさいませ、手っ取り早い稼ぎになります。‘」

 そしてさらにいいました。

 「村瀬は取りつぶしになったのだから、山県の姓に戻られたらいかがですか。

聞くところによると、山県家は甲斐の名家とのこと、捨てておいては惜しいではありませんか」

 新助にいわれるまでもなく、かねてから自分でもそう考えていた大弐は、山県の姓に復し江戸に立つ決心をしました。

 大弐は、江戸に立つ前に屯王新町に移った兄を訪ね、二人揃って篠原村の金剛寺にお参りしました、金剛寺には山県家の先祖の墓かあるからです。玉川村から嫁いだ祖母の墓もありました。

山三郎か甲府に移っても、篠原村に居ついたまま一度も甲府にこなかった祖母ですが、大弐にはやさしい祖母でした。

余剛寺にお参りした後、大弐は兄と別れ甲府に戻りました。昌樹は、別れるとき大弐にさりげなくいいました。

「江戸にいったら身体をだいじにするのだ。武門のことはもう忘れなさい。」

 大弐は、兄が何をいおうとしたのかすぐにわかりました。

甲府に戻った次の日、妻と一天で龍華院にいき、両親と妹の墓参りをしました。

 






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最終更新日  2021年04月25日 13時28分15秒
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