カテゴリ:山縣大弐
山形大弐の歴史 広瀬中庵との別れ
大弐は、甲府に数日いていろいろの人と会いました。甲府の町の知り合いを訪ねたこともありました。しかし、与力であったころの大弐は尊敬されていましたが、浪人した後の大弐には冷淡でした。ろくに挨拶もせず、迷惑そうな顔をする者もいました。大弐は、人の心の無情さに悲しみを感じ、故郷の山河を瞼に焼き付けて甲府を去ることにしました。 大弐は、釜無川の土手を歩きなから兄と遊んだころを思いだしました。また、自分を教え育ててくれた恩師、五味釜川のことも心に浮かび、師の励ましの声か川面を渡って聞こえてきそうでした。 なつかしさを振り切って歩いていくと、上手のhに一人の男が迦っていました。近寄って路ると広瀬中庵でした。かつては机を笙べて学んだ学友です。 中庵は享保に一八年市川大門村に生まれました。市川の名医といわれた保益の養子となり、幼いうちから医学を学びました。後に、五味釜川の弟子になりましたか、生まれつき頭か良く、覚えが良かったため、大弐とともに釜川の片腕といわれる優れた弟子になりました。 そんなことで、師の五味釜川は自分の宗家にあたる五味秀致の娘を欧話し、中庵と結婚させて広瀬家を創設させました。 中庵はやがて京都に遊学し、医学のほか儒学や古医学などを学び藤田村に戻り、医業をはじめました。中庵は医者として有名だったばかりでなく、困っている人に施しをしたりしたので、門前市をなすほど栄えたといわれています。 その中庵が、忙しい時間を惜しんで大弐を待っていたのでした。かつての兄弟弟子に会いたかったからですが、もう一つの目的かあったのです。それは、いつか議論したことのある「柳子新論」のことを知りたかったからです。柳子新論は、大弐の学論ではありますが、京都で学んだ中庵からも影響を受けていたのでした。 二人は、釜無川の土手に座って長い間話をしていました。その時、大弐かしきりに咳をするのを見て、中庵は療養をすすめました。大弐には胸の宿病(病気)があることも知っていたからでした。 中庵と別れた大弐は、鰍沢まで歩いて河津から舟に乗りました。高瀬舟は本流に出て、勢い良く富士川を下りました。
山県大弐の歴史 富士川を下り熱海へ
そのころの富士川は舟運が盛んでした。 甲州と駿河を結ぶ交通機関として大変便利だったからです。舶底の平らな高瀬舟に客や荷物を積んで、岩淵あたりまでを往復していたのです。記録によると、笛吹川や釜無川まで高瀬舟がきたと記してあり、便利な舟だったことが分かります。 大弐は、富士川を無事に下り、熱海の温泉で療養することになりました。広瀬中庵から熱海で療養することをすすめたからでした。中庵は誰よりも大弐の病気を心配していたのです。滞在中の費用は中庵の賤別で賄われたという説もあるくらい二人の関係は親密でした。 また、これとは別に「熱海浴泉歌」があります。この詩は熱海で療養中につくられたものです。大弐独特のすばらしいー書体で書かれ、いまも軸装されて山県神社の宝物殿に納められています。 また、大弐は、熱海の温泉か気にいったらしく、初秋のころまで湯治していました。ですが、ただ湯治していたのではなく、中庵と語った「柳子新論」の草稿のことも考えていたのです。また、熱海滞在中に多くの本も読みました。詩も書きました。その中の一つが「鰍沢早発」の詩です。中庵の曽孫に当たる広瀬和育の筆で書かれた詩碑が、今も鰍沢小学校庭に残されています、
鰍門遥かに駿河に向かって通ず 急峡長灘鬼工を見る 目送す千山皆北に走るを 扁舟早已に南中に到る
訳して書きましたので、大体の意味は分かると思います。高瀬舟から眺めた富士川の様子や景観を詩にしたものです。 また、これとは別に「熱海浴泉歌」があります。この詩は熱海で療養中につくられたものです。大弐独特のすばらしいー書体で書かれ、いまも軸装されて山県神社の宝物殿に納められています。 大弐は、熱海でゆっくりと療養したおかげで、長いこと患っていた病気もすっかり良くなり、江戸に戻ることになりました。 箱根の山を越えて小田原摩滅を見学し、絵島(匝の島)にも逝びました。勿論鎌倉も見物したでしょう。一見、遊びにも見える大弐ののろのろ旅ですが、大弐にとって貴重な見聞であったに違いありません、後に、大弐塾を開くに当たって、疸要な役割を果たすことになるのです。
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最終更新日
2021年04月25日 13時27分10秒
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