カテゴリ:山縣大弐
山形大弐の歴史 大弐塾
宝暦十年四月二十六日、以降で療養していた大岡忠光が逝去しました。大弐が三十六歳の時です。大弐は、忠光の子忠喜(ただよし)の命により、主君の墓誌を書いた後、大岡家を去り再び浪人になりました。 浪人になった大弐は、八丁堀永沢町に塾を開き、「柳子新論」の草稿をすすめるとともに、儒学や医学、兵学などの講義をおこないました。当時の幕府は、朱子学を官学に定めていましたので、幕府にとっては、好ましくない学問でした。 ですが、大弐の学問は範囲が広く、儒学のほかに皇道学、天文学、暦学、地理、歴史、音韻、数学、和算、経済学、武術などのほか、詩文、笙の吹奏、琵琶の弾奏まで、ありとあらゆる学問を教えましたから、門弟の数はしだいに増え、その数三千人にも及んだと記録に残されています。 そのため大弐は、近くの高林寺の本堂を借りて塾を移し、門弟を交互に教えました、その門弟のほとんどは、江戸屋敷にいる各藩の藩士でしたが、中には評判を聞いて地方からやってきた自費学生もいましたし、かつては大弐がお世話になった甲府の与力、吉川新助の長男田中嘉卿もおり、宝暦の事件に関わった竹内式部や、藤井右門などもいました。ですが藤井右門たちは一角(ひとかど)の学者でしたから、大弐の塾の居候のような存在でした。 このように、大弐塾は思いのほか繁盛していましたか、いつまでも順風満帆というわけにはいきませんでした。上州小幡藩の家老、吉田玄番を弟子にしたことか事件の発端になるのですが、この時にはまだただの師弟関係にすぎませんでした。 玄蕃は大弐の学識に感動し、大弐を小幡藩に招いて藩の配剽をおこなおうと考えました。そこで、主君の織田信邦に進言し、御殿に召して講義を受けるよう申し上げたのですが、信邦は学問が苦手で、はじめのうちは尻込みしていましたが、各藩から大弐を求める動きのあることを玄蕃から聞き、ようやく大弐の講義を聞く気になりました。 大弐もまた、吉田玄蕃の人物に尊敬の念を抱いていましたから、玄蕃の願いをいれて、小幡藩の改革に手助けすることを約束しました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月25日 13時25分23秒
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