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2019年04月16日
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三枝雲岱 『須玉町史』通史編による

 三枝雲岱

 三枝雲岱は、峡北の地に生まれ育ち、画人としてよく知られた。

書岱の薬壌をたどるための最も基本的な史料が、次の「三枚雲岱先生之碑」の碑文である。この碑は甲府市愛宕町の長禅寺にあったが、現在は須玉町若神子の東漸寺にある。以下は、佐藤八郎による原碑文の訓読である

(『山梨県の漢字碑』)本稿において、「碑文」と略記するときは、この訓読を指すものとする。

「三枚雲岱先生之碑」

「三枚雲岱先生之碑」一部加筆

先生、諱は汰、字は淘之、雲岱と号す、本姓は小野。甲斐の巨摩郡浅尾新田の人なり。父は元鼎といい、先生はその第三子なり。幼にして異稟(いりん 優れた才能)有り、学を本郡谷戸村森越某に受け、後、少林寺の僧非一に従う。年十四、蔵原村(現高根町)の修験道三枝啓(ばんけい)に養われて其姓を冒し、愛宕社に奉祀す。先生、少なくして絵事を嗜み、甲府の人竹村雲隣に就きて学ぶ。天保十年(一八三九)、職を長子宗弘に譲り、専ら丹青を事とす。慶応二年(一八六六)、宗弘病みて歿し、嫡孫宗啓は尚幼し。乃ち起ちて家事を視る。明治の初、神仏を混淆するを禁ず、宗啓、遷りて神官と為るも、幾ばくも無くして罷む。先生復出でて八幡及び比志大神諸社の祠官と為る。性謹厚質愨、未た嘗て人と争わず、躯幹偉大、眉目清秀、美髯(美しくみごとなほおひげ)璨然(さんぜん)たり。時に渓山の間を従来すれば、人望んで以て神仙と為す。詩及び和歌を喜(この)む。然れども其の長ずる所は画法に在るなり。初め南宗を喜み、後、尾張の人木田華堂に従い岸派に私淑す。一旦悟る所有り、終に南宗に帰す。四方に出遊して京摂に至り、日根対山・中西耕石を訪ね、画法を問いて東帰し、業、大いに進み、名声愈よ起る。最も花鳥に妙に、精緻妍麗、巧にして俗ならず、気韻極めて高し。

嘗て甲府の豪商若尾氏の為に「月令花卉十二幀」を画く、用筆施采、巧妙神に入り、覧者駭(おど)き服す。明治一三年(一八八〇)六月、大駕の山梨県に巡幸するや、先生、御嶽新道及び玉堂富貴の二図を画いて之を上(たてまつ)り、物を賜わり嘉奨せらる。(明治)三三年(一九〇〇)五月、皇太子、妃を納(い)れらる、先生、時に年九〇、歳寒三友の図を画いて之を献じ、書を賜いて優賞せらる。是より先、先生、年七十一、其の所作を絵画共進会に出し、褒状を得たり。宮内省、七〇以上の者に命じて屏風に画かしむ、先生亦これに与(あずか)る。世、並びに伝えて栄と為す。(明治)三四年(一九〇一)三月一九日病みて歿す、享年九十有一。本村塋城に葬る。先生教職に在るや、訓導・権少講義・中講義を歴て権少救正に進み、歿して権大教正を贈らる。謚(おくりな)して八束髯可美足男命(やつかひげうましらるおのみこと)と曰う、蓋し其徳と美髯とを表わすなり。嘗て楼(たかどの)を宅西に築き、名づけて崇山修竹と曰い、大窪詩仏に請いて其扁匾額を書し、朝夕吟誦し、或は筆を揮い思を構う。其風致此の如し。先生の前配即ち義父の女、三男一女を生む。長は即ち宗弘なり、次、元周、出でて広瀬氏を嗣ぎ、女は小川某に適(ゆ)く。継配細田氏、一男四女を生む。男基は別に家を成す、長女は細田某に適き、次は赤岡某に適く。次は馬場某に適き、其次は丸山某に適く。今茲(ことし)明治三六年(1903)四月、嗣孫、門人故旧と碑を建てて之を表わさんと欲し、人をして余が銘を求めしむ。乃ち銘して曰く、

 翎毛と花卉と、生機飛動す。維れ筆の霊、泉、迸り、雲、湧く。嘻(ああ)、歹(なんじ)岱翁、技芸神に通ず。曽て御覧を経て、名は紫宸に達(およ)ぶ。齢、上寿を得る。豈に天の賜に非ざらんや。峡山、嵯峨として、斯(この)人の瑞(よろこび)を表わす。

 明治三八年八月 神道管長正三位子爵本多康穣篆額す 

東京正六位 依田百川撰す  東京 江間真書す

「碑文」は三枝雲岱の人となりと風姿を、「性護摩質懇(かざりけがなく)」にして、その「躯幹偉大、未た嘗 て澱む争わず、眉目清秀、発覚嘩然たり」と伝えている。

運岱が「渓山の間を往来すれば、人望んで以て神仙と為」したという。同じく「碑文」は雲岱の画業について次のように評している。「翎毛と花卉と、生機飛動す。維れ筆の霊、泉、迸(ほとばし)雲、湧く。嘻(ああ)、歹岱翁、芸神に通ず」 (花鳥を描けば生きているがごとく、筆によって泉水がほとばしり、雲が湧く。雲岱の画技は神にも通じる)。

 このように評される画技によって、雲岱は生まれ育った峡北の地の自然を舞台に多くの作品を残している。

「峡山、嵯峨として、斯(この)人の瑞(よろこび)を表わす」と「碑文」にあるように、峡北の嵯峨とした、険しい山々の姿は、画人雲岱にとってその「瑞を表わす」ものにほかならなかったのである。厳しくかつ豊かな自然のなかで育まれた、幸福な芸術の在り方を雲岱の画業のなかにみることができるのである。

 また雲岱は絵画のみならず、「詩及び和歌を喜(この)」んだと「碑文」は伝えている。詩、書、画はともに雲岱が生涯を通じて追究したものであった。この意味で、雲岱の生涯は、まさに「詩書一致」の理想を求める「文人」の生涯であった。三枝雲岱の生涯とその画業をたどることとする。

 以下、年ごとにその年における雲岱にかかわる事跡とその作品について記述する。言及される絵画作品は、『須玉町史『という本稿の目的から、町域に現存する作品で、かつ制作年が画中の干支などから確認することができ、雲岱の画風を知る上で基準となり得るものに限定した。したがって、本稿執輩のため調査した雲岱作品のすべてに言及することはできない。






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最終更新日  2021年04月25日 12時37分28秒
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