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2019年04月16日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

甲斐の国造り


 御坂町の歴史
」より。一部加筆


◇ 日本武尊

甲斐の国でも酒折の宮はその古伝説を残す地として、有名な火秉(ひとり)の翁との問答歌が生まれ、甲府市酒折の古天神がその旧地であるという。

また本町関係としては、若彦路をめぐって花鳥山の一本杉、永井の天神社などが、酒折の古地であると主張し、なお尊の経路として、富士の麓を通り、大石峠を越え、鳥坂を下りて、竹居の池をすぎて国の中央部に出たという説が、かつては有力であった。

(土屋節堂著『趣味の甲斐史』)

またその道筋が若彦路であり、武居は建居などにつくり、日本武尊(やまとたけるのみこと)の御子(わか)武彦(たけひこ)(おう)が居られたから武居というのだというのである。

また別の伝説では、甲斐国造建許(たけ)(ころ)が居ったから(たけ)()であるとか、さらにこの地が竹に宜しいので竹生といったとかの話もある。いずれにしても日本武尊伝説は、本町周辺では、花鳥山、室部、神有、高坂、鉾の木、熊野権現など非常に多い。 

しかし今日歴史学の上では、日本武尊というのは、ヤマトのタケルであり、大和の勇者を意味する普通名詞で、建国後にそうした幾人もの勇者の物語をまとめ上げたものであろうというのが常識化されている。

 従って、こうしたヤマトタケルの征夷物語は、大和朝廷成立期の五世紀~六世紀頃の、地方統治の方式を背景に造り出されてきたものであることは間違いない。

 こうして六世紀ともなると、氏、(かばね)制度も政治組織として整えられたようであり、臣とか連とか伴とかの一般に知られる名称も、このころ朝廷勢力の発展にともなって順次整えられていったのであろう。

 ただ甲斐国の古代史を通じて、大化前代の十分信頼できる史料というものはほとんどない。甲斐国造の記録が見える史料としては『古事記』開化段の、

 几日子坐王(彦坐王)之子、並び十一王。故大俣王、……。次沙本毘古王(狭穂彦王)者、日下部連、甲斐国造之祖。

 とある記録が最初で、これによると、甲斐の国造というのは日下部連と開祖で、開化天皇皇子彦坐王の子の秋穂彦王から出たとあるのである。

 また『旧事本紀』巻十の「国造本紀」によると、

 

☆ 甲斐国造 『御坂町誌』一部加筆

 

  纒向目代朝(景行)世、狭穂彦王三世孫臣知津彦公此宇塩海彦王、定賜国造。

 とあり、これまた甲斐国造の祖はやはり狭穂彦王で、その三世の孫の知津彦公の子の塩海足尼が、景行天皇のときに国造(くにのみやっこ)に任命されたと見える。これを総合すると、狭穂彦王の子孫は、中央で日下部連(くさかべのむらじ)という氏になり、またその一族のうち、甲斐国に土着したものが、景行天皇の御代に甲斐の国造に任命されたということになる。

 これをめぐっては、幾多の議論が出ている。即ち前記をそのままとり、甲斐国造は実際に日下部連と開祖であり、秋穂彦王の子孫、が非常に早期に中央から下ってきたとする説。

またこれに対して、これらの記録はあくまで伝説時代に属する仮託であって、実際には本来甲斐の地方に成長した在地勢力(土豪)恐らく、弥生時代以降に発生した地方部落国家の首長の後が、中央の皇族や雄族に屈服して、その氏から出たなどと、修飾したものであろうという見方をしている説である。

 なお後者の論拠というのは、『国造本紀』は平安時代に入ってからまとめられたもので、その材料は七世紀後半を遡らないと見られていること、また国造制の成立が、その年代も事情もほとんど不明で、恐らく四世紀というような早い時期に全国的に広く成立していたとは考えにくく、甲斐の国造の場合も、五世紀頃のある時期に国造が生まれたとみるのが穏当であると見ているのである。

(「甲斐国造と日下部」関晃氏、「甲斐史学」特集号)

 ここで、姓についてみると、いわゆる各氏族の家格の尊卑を示すのが姓(戸)で、これらの姓には臣、遠、直、首等があり、最初は朝廷から各氏族の主長である氏上に賜わった称であるという。姓のうちでは、臣、遠の二姓がもっとも貴いとされていた。

 このような「氏姓」を甲斐国にあてはめてみると、『国造本紀』にある狭穂彦王の三世の孫臣知津彦公の子塩海足尼が、景行天皇のときに甲斐国造に任ぜられたとある信憑性はまず問題があり、さらに具体的に甲斐国造の“氏姓”が何であったかということになると、さらに不確実で、従来、『古事記』を誤認して、日下部連が甲斐国造の氏姓かのごとく考えられてきたために「連」説が有力ではあったが、やはり依然として推定の段階を出でないというのが実態である。

 それで前記関氏によれば、日下部連という氏は、おそらく河内を本拠としていたと思われる中央豪族で、その氏人として、七世紀までに名前が知られるのは、「雄略即位前記」、「顕宗即伝前記」、「播磨国風土記 美嚢郡志深里条」などにみえる日下部連使主と、同吾田彦の父子、および「孝徳紀」白雄元年二月条にみえる宍戸国司草壁連醜経等かおり、天武天皇十三年には大伴連ら四十九氏とともに宿禰の新姓を与えられている。

また『新撰姓氏録』には、山城皇別と摂津皇別に日下部宿禰・河内皇別に日下部連がみえていて、いずれも開化天皇皇子彦坐命、あるいはその子の狭穂彦命の後となっているという。

 また日下部というのは、いわゆる名代(なしろ)子代(こしろ)の部の一つとされ、これは天皇、皇族などの宮号、あるいは名号を付した部であって、どちらも天皇や皇族の生活の資に充てるために置かれた皇室私有民であると見なされている。

 この日下部の地名については、山梨市に旧日下部村があり、正倉院御物の中の金青袋白絁に

「甲斐国山梨郡可美里日下部■■絁一匹 和銅七年十月」

の墨書銘があって、現在の山梨市の旧日下部、八幡村以北が可美里ということになっている。

 このように、大化前代のことは史料から迫うことは無理であるが、一応甲斐国造については、ここでは従来通り塩海足尼を置いてみる。またそれからたどると、聖武天皇の天平三年田辺史広足が国守になって赴任するまで、約六百年間は、国守については全く知ることができないのである。

 ただ地方史の場合、史料的価値が低く、取るにたらない史料だからといって、私達の地方にもやもやと伝わるこの時代の古伝説や資料を、完全に無視するわけにはいかない。

 たとえば、『古事記』によれば

「波多八代宿禰は波多臣、林臣、波美、星川臣、淡海臣、長谷部君の祖なり」

とあって、甲斐国にその系流を求めれば、波多八代は、後に八代郡となり、林朝臣は、山梨、八代郡に属した林戸の郷があり、波美は巨摩郡に逸見郷があり、さらに同じく古事記の許勢小柄宿禰は許勢臣で、甲府市に小瀬町か古くから伝えられている。そのほか姓氏録の神別の部に見える曽根連、弓削宿禰など、中道町から三珠町へかけて関連遺跡がある。

 本町関係で忘れてならないのは、二之宮の美和明神である。甲斐叢記に

「社記に曰く、景行天皇の御代、日本武尊の命にて塩見足尼勧請せしなり云々」

と注目すべき記載がある。「日本武尊の命にて……」は肯定できないとしても、この社、が、甲斐国造といわれる塩海足尼により、大和の大三輪神社を勧請してきたという由緒は、やはり(ゆる)がせに出来ないであろう。もっとも同神社には、本町尾山に山宮があり、杵衝(きつき)神社といわれ、同社記には  

「美和神社の古社地にして、もと山宮喜筑明神と称し云々」

と記している。旧地はあるいはこのように山宮かも知れないが、それにしても、国造塩海足尼を祭る国立明神が井上部落の中にあって、一応社記その他の文献に関連性をもたせている。国立明神は隣町の一宮町塩田にもあって、やはり塩海足尼を祭り、国建明神ともいうが、この地にも甲斐国造伝説が濃厚に残されている。(一宮町誌)

 美和神社が県下での古社であることは、祭神が大己貴命(大国主命の別名)で、木像衣冠立姿の御神体は、平安時代の貴重な遺品として国の重要文化財に指定されていることでも知られる。そして社記では、日本武尊の勧請命令で塩梅足尼が大三輪明神を田宮に勧請したことになるが、またこれに関連して、社記は、雄略天皇十二年九月九日、国幣を賜わりしとき、

「応神天皇の皇子(稚侚淳毛)二派皇子の御子太郎王(あるいは鷺王という)の子、坂名井君

甲州国衙に御座の所、奏に依りて坂名井君を以て、はじめて神務を執行はせ給ふ、是を神主の

太祖とす」

とあり、山宮から現在の二之宮の地に遷座したのは、このときではないかと見ているのである。

 そして、これに符帳を合わせるように、『日本書紀』雄略天皇の十三年九月木工猪名部真根の死罪を赦す勅使が、甲斐の黒駒に乗って刑所に馳せ来り、真根の命を助けるという事件があった。(後述)

 さらに下って六世紀の終わり、堆古天皇の御代、聖徳太子が摂政となって、臣下に命じて善き馬を求めたところ、甲斐の国から鳥駒という体が黒く、四本の脚だけが白い馬が献上された。秋九月、太子は試みにこの烏駒に乗ったところ、一潟千里にかけて、たちまち富士山にいたり、転じて信濃にまでいたった。飛ぶこと雷震のようで、まことに神馬であるというのである。(扶桑略記)そして、この馬もまた甲斐の黒駒産だったというのである。

 本町の黒駒がともかくも、貴重な文献に登場した最初であり、その時代的位置づけが理解されるのであるが、ただ今までに列記した事柄を、直ちに歴史史料に組入れてみることは勿論危険である。ただ問題があるとしても、こうした古伝説がなんとなく残されている地方が、前章の弥生時代から土師の時代へかけて栄えた笛吹川流域に集中してあることは、やはり仮託にしても注目に値する内容といえよう。

 とくに古代交通路の変遷が、古墳時代以降は古道中道(尾根づたいの道)から、やがて五・六世紀ともなると、次第に若彦路に固まってきて、それに伴って文化的中心地も三珠・豊富・中道・境川の曽根丘陵地帯から、漸次八代・御坂こ宮・ぢ和・岡部・春日居方面に移っていった様相をなんとなく示しているからである。

 ヤマトタケルの征夷物語が、大和朝廷成立期の五世紀I六世紀頃の地方統治の在り方から生まれてきたことは先にも述べた通りである。本町周辺をめぐって、断然このタケル伝説が多いのも、宮道若彦路の中央文化の流人経路と相関して、発生していることは間違いないであろう。






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最終更新日  2021年04月25日 12時34分57秒
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