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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年04月16日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

☆ 郡、郷の移りかわり

 こうした時代をへて、八世紀の初頭(七〇一)、文武天皇大宝元年に、大宝律令が公布された。律令公布とは、奈良・平安時代を通じて行なわれた律令法にもとづく、国の政治的組織の体系づけとでもいうべきもので、大化の改新以後の令の制定から、この大宝律令にいたって、律・令ともに漸くそなわった制度が完備したのである。この間、大化の改新から五十六年が経過していた。この新しい国郡制に基づいて、わが県も東海道に属する一国として甲斐国を設置した。当然、県治の中心地には国庁が置かれるようになった。地方官である国司が派遣され、行政区分としては国・郡・里が構成され、国司の下に郡司が置かれた。そして郡司が里長以下を監督するのである。

 一国の組織である郡は、山梨・八代・巨麻・都留の四郡が置かれた。

国庁には中央政府から一定数の国司((かみ)(すけ)(じょう)(さかん)等)が赴任して政務をとった。また郡には一定数の郡司(大領・少領・主政・主帳等)がおってこれを治めたが、この郡司の大領・少領などは、旧国造階級の地方豪族が普通任用されたという。

 甲斐国の郡司名は、平安時代の初期に、

八代郡擬大領伴直真貞(『三代実録』、貞観七、十二、九条)、

都留郡大領矢作部宅雄、少領同毎世 (同、貞観一四、三、廿条)

の名が知られる。

 国司名は天平三年の田辺史広足が初見である。国は大・上・中・下の四等級に分けられ、甲斐は東海道に属して上国であった。

国府の置かれたところは国館(くにのたち)、または国衙(こくが)と呼び、その所在地は国府と呼んだ。

国府の一般的位置と形態は、条里制施行地域が周辺にみられ、駅路に沿い、河川に臨み、方五町から方八町(例外的には小区画がある)の府域内に、条坊的町割を存する。正南北方位をとり、周辺条理と異ることが多い。周囲に塁濠をめぐらし、四隅に神社を配すことがある。また付近に関係社寺・(総社、国分寺、国学、軍団)があることなどが常識である。さらに国分寺の創建、が東大寺の方域にならったように、ほぼ平城宮や平城京を模して、その規模を何分の幾つかに縮めた条坊制がとられたのではないかと見られている。

 

平城への遷都は和銅三年で、同六年諸国郡部の名に好字をつけ、その風土記を上らせることが銃口本紀に見えている。そして甲斐国の行政区画である郡名が確かな文献に登場するのは、その翌年、つまり和銅七年(七一四)十月の前記「金青袋白絁を納めた「山梨郡可美里日下部某」に関する記録が初見である。同時に可美里の里が記載されているのも唯一の例であって、その翌年の霊亀元年(七一五)には、里は郷と改められている。

 巨麻郡と都留郡の郡名は、正倉院文書の天平宝字五年(七六一)の、神宮造営徴用者巨麻郡栗原郷漢入部千代の記録があり、八代郡の郡名は、『続日本紀』の神護景雲二年(七六八)孝子小谷直五百依の記録に見えてくる。

 このように甲斐国は初めから四郡制をもって発足したようで、和銅六年の郡郷に好字をつけよといった命から約二〇〇年後の、承平年間(九三一~九三七)、『延喜式』と相前後して書かれた『和名抄』によると、初めて甲斐国の郡制は四郡とあり、郷は三十一郷制がしかれている様子が明確に把握できるのである。

 

 『和名抄』によると、

甲斐には山梨(夜万奈之)、八代(夜豆之呂)、巨摩(麻)、都(豆)留の四郡があった。

 山梨郡

於曽(塩山付近)、能呂(上、下岩崎から能呂付近)、林戸(一宮町内)、

井上(井上、金川原、長田、下野原、栗合、夏目原、尾山付近)

玉井(井上の西方一帯で、金川と笛吹川の合流点付近で北から坪井、上下平井、中川、成田、 

国衙、二之宮周辺まで)

があって、以上五郷を山梨東郡となすとある。

  また石禾(現在の石和付近)、表門(現在の表戸付近)、山梨(旧山梨、岡部、春日居付近)、加美(旧日下部、八幡以北)、大野(現在の大野、加納岩付近)の以上五郷は山梨西郡となすとある。

 

 八代郡 

 次に隣の八代郡を見ると、ここは五郡あって、

八代(旧八代付近)、長江(旧御所村付近)、白井(白井から境川付近)、

沼尾(柏、朝井、二川汗近)、川合(三町、稲積付近)

となっている。

 以上を検討してみると、山梨、八代郡ともに記載形式は厳密で、山梨郡の場合筆頭は北の於曽から下って東郡の五郷は笛吹川の東側、次に西郷は、東郡の末尾をうけて、石禾から始まり、笛吹川の西を北にさかのぼっている。また八代郡は、山梨郡の郡界の長江から始まり南、西へ向かって進み八代に帰って終わっている。

 山梨郡の場合、於曽から能呂へいきなり飛んで、その間に郷がないみたいであるが、実はこれは巨麻郡の郷名に等力と栗原があり、巨麻郡の飛領として、日川周辺の地にあったのだ、が、巨麻郡に編制されているため登場しないまでである。

 以上の結果、本町をめぐる古代の郷は、かってはすべて山梨郡に属していたことが知られる。しかもその境界は、現在の天川の流れにほぼそって、八代と山梨郡の境があった模様で、さらに郷の分布状態から見ると、一宮町から本町にかけてとくに周密に郷が分布しており、それだけでも古代から律令制時代へかけて、このあたりが文化の中心地だった様子を裏付けているのである。

 この点、郡界の問題について、『東八代郡誌』は「古昔この川(金川)を以って、山梨、八代の郡界となせし」と云う。『和名抄』は「能呂、井上、林戸等の諸郷は山梨郡にして、八代郡に属せしは白井、八代、長江等なりというにても知るにたらん。当時は金川の流域は下黒駒より井上の南に出で、西南に流れたりと云い伝う。然るにその河瀬次第に北に変遷して英村の北を西北に流れ、笛吹川に流入せり、而して出水の毎時下黒駒の下方、押出と称する地方より氾乱の衝をうくるは金川原にして、この地人民安住の地ならざるが如し。成田・中川・平井等皆砂地にして四五尺の地下には家具の埋没せるもの、石垣の存するものなどありて、かっての災厄を蒙りたる遺跡を認むるに足ると述べている。

 

金川がその昔天川に沿って流れていたものか、或は下黒駒から井上の南、国箭と二之宮の間を西に流れていたものか、勿論今は明らかではないが、なんとなく天川の流れ周辺が郡界だった様子は、古郷の配置と土師遺跡の分布状態から立証できるであろう。さらにこのことは、地理的に見ると、日川以北は大化前代の開拓は遅い地方で、於曽、加美郷の所在地点が、漠然と塩山、山梨市付近を指しているのみである。これによっても、当時の山梨、八代の中心地は現在の概念よりずっと南にあり、従って郡界も天川付近と見てさしつかえない。また八代郡は古代の交通路の関係から見ても明らかに郡内領の河口湖周辺から以西は八代郡であった模様が知られる。

 古代から律令制時代へかけて、現在の金川が今の流路をとっていなかったと思われる点は、前章で書いた古墳分布に見ても明らかである。とくに金川原から下野原へかけての古墳群は、実に周密なものがあり、土師の遺跡の分布も同様に豊富である。この点古代の人々が自らの奥津城を設ける場合、現在のような氾濫原としての危険状態をもつ地勢環境に、簡単に古墳や集落を構えようとは思われず、その当時は少なくとも流路はもっと南を流れていて、金川原方面は安全地帯だったため、このように古墳や集落が多かったのではないかと思われる。

 その点興味深いのは、山梨郡中にあった野呂、林戸、井上、玉井、石禾(石和)など、八代郡に編成替えを見た時期である。このことは、笛吹川筋、重川筋の主として北部の開拓が進み、郷が発展するに従って、山梨郡の北の限界が伸びていったことに関連がある。

 また、とくに興味深いのは、同じ『和名抄』中に、「国府在、八代郡、行程、上二十五日、下十三日」の記載との関連である。和名抄の成立は前述のように承平年間の作とされるが、同じ書物の中に、郷名を追究すると、明らかに玉井郷あたりに含まれる国衙が(一歩をゆずって井上郷に入るとしても)、いずれにしても山梨郡内に含まれている矛盾である。

 これは、後述するように、この郡界の問題がたまたま、この承平年間前後に変更があったと見なされる要素を持つもので、それは和名抄そのものの成立と深い関連を持つものであろう。

 さらに時代が下ってくると、文献的には石和(禾)庄、井上庄がともに鎌倉時代には八郡下となって、はっきり明示されてくる。(東艦等)そしてさらに下ると、戦国時代以後には日川以南の一宮地区がさらに八代郡中に編入されて、日川の流れが、郡界になっていった様子を示している。

 このように、金川の流路が現在の流路に固定してくるのは、ほぼ平安時代中期(承平年間)頃から、鎌倉時代頃と見てさしつかえなかろう。

《註》

和名抄(倭名類聚抄)は源順の著といわれる。わが国最初の分類漢和字書で、承平四年頃(九三国)成立したという。一〇巻本と、二〇巻本とあり、二 〇巻本の方は、後の人が増補して、平安時代後期に完成した。このようにその成立過程から考えても、郡界の変更がこの期にあったことを示している。






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最終更新日  2021年04月25日 12時34分11秒
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