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2019年04月16日
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栃木県宇都宮城 釣天井の間があった?

『歴史読本』83-8 特別増刊 

日本全国なぜなぜ百貨店/関東地方 一部加筆

 

宇都宮城には釣天井はなかった。これは全くの伝説(偽作)であった、歴史的には何の資料のも遺跡もないのである。にもかかわらず、宇都宮と云えば「釣天井」が連想され、三代将軍家光を暗殺しようとした主人公が本多上野介正純であるというのが世間一般の常識となっている。

ではこのような虚説が生まれた根拠がまったくなかったか、ということになると、釣天井工作の主人公に擬せられた本田正純は理実在の人物であり、元和五年から同年八月まで約三ヶ年間ほど宇都宮城主であったことには間違いがない。

 その本多正純か、なぜ将軍家光を圧殺しようとした虚説の人物にあてられたかというと、わずか三ヵ年足らずで山形城請け取りのため出張中、出先で宇都宮城を召し上げられ、出羽由利へ移されたが、これを受けなかったことにより、将軍の命に背いた罪人として秋田の佐竹侯に預けられ、十四年間、横手城裏山の屋敷に幽閉されて没した。という歴史的事実が、後世の戯作者の格好の素材となった為である。

 本多正純は、徳川家康の側近第一人者として権勢のあった大人物で、幕府加判の筆頭でもあり、家康の遺命を守って日光東照宮を建設した功労者でもある。このような重要人物か幕府の命に背く罪人となるには、それ相応の理由がなければならなかったはずである。

 それは、家康在世時代、家康と秀忠の二元政治が行なわれていたときから、深く根を張っていたことで、家康没後は本多正純がその遺臣として孤立してしまったのである。

 すなわち、秀忠派から正純は敬遠され、最後には宇都宮一五万五〇〇〇石を召し上げられ、横手の山中で淋しく死んでいくことになったのである。

この事実よりも釣天井事件の方が、はるかに面白く、人にも話しやすい。そのため釣天井が有名になったのである。‘

  (徳田浩淳氏著)






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最終更新日  2021年04月25日 12時02分24秒
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