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明石志賀之勣が 初代横綱といわれたのはなぜ?
『歴史読本』83-8 特別増刊 日本全国なぜなぜ百貨店/関東地方 一部加筆
宇都宮市の蒲生神社境内に 「日下開山初代横綱力士明石志賀之助碑」 というのが建立されている。 これは、明治三十三年に十二代横綱陣幕久五郎が宇都宮を訪れたとき、 「初代横綱の生地に何らの碑もないのは残念だ」 と言い、旧宇都宮城跡本丸に碑を建てたものである。 大正十五年八幡山入口に蒲生神社が設立されたことから、 昭和初期にその境内に移されたものである。 郷土の人々は明石志賀之助の伝記を信じて疑わない。 だか、志賀之助についての史料はほとんどなく、ただ伝承と手形と人物像が伝えられているだけである。 しかし、江戸時代に上梓された『近世奇蹟考』には、その事蹟がややくわしく叙述されている。 これらによると、志賀之助は宇都宮藩主奥平大勝大夫の家臣山内主膳の二男で幼名は鹿之助、 少年時代から堂々たる体格で、十五歳のとき身長六尺余(約ニメートル)、体重二二貫(約九〇キロ)もあった。 十八歳のとき江戸に出て力士須磨浦林右衛門の弟子となり、 寛永元年(一六二四)には関脇にすすみ、「明石」の醜名(しこ名)で知られるようになった。 この年、寛永寺建立資金の勧進相撲が行なわれて江戸市民の人気を得、大関に昇進した。 さらに、翌寛永二年三月、京都四条河原で上覧相撲が行なわれたとき、 天下の名力士丸山仁王太夫と取り組み、堂々と勝星をあげた。 このとき朝廷から「日の下開山」の称号使用の許可かあり、 これまで大関が最高であった相撲の位に「横綱」の呼称がはじめて許されたという。 時に志賀之助十九歳。 その後は、江戸の侠客、夢の市郎兵衛の後援を得て兄弟分の交わりを深くし、 角界でますます名声を博したといわれている。 明石のしこ名は、師匠の須磨浦に対し、 須磨・明石といわれた瀬戸内海名勝の地に因んでつけられたという。(徳田浩淳氏著) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月25日 12時00分10秒
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