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2019年04月17日
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武田家臣 刀一番槍の鳶(とび)二位

  武田信玄には異臣が多かった。

    武田信玄十人の異臣 土橋治重氏著 

「歴史読本」立体構成 武田信玄 昭和44年刊 一部加筆

 

 鳶大弐、鳶二位の兄弟はもと紀州根来の法師であった。

弘治のころ(一五五五~五八)から武田家に仕えていたようだ。

 二人とも合戦巧者で、ともに馬場美濃守の同心として、その存在を知られていた。

 永禄十二年の夏、兄の大弐は駿河八幡平での北条勢との合戦に重傷を負った。

弟の二位は健在で、つぎの合戦には兄の分まで働こうと意気ごんでいた。

 この年の十月、小田原まで軍を進めて城を囲んだ信玄は、

陽動作戦なのですぐ軍を返した。

だが、小田原勢が追尾してきて、〈三増峠の合戦〉になった。

 馬場美濃守の備えには、

信玄の旗本から真田喜兵衛(のちの昌幸)が検使役としてやってきたが、

喜兵衛は検使の役目など忘れてしまったように槍をとって戦い、一番槍の功名をたてた。

 それを見ていた鳶二位は、

「真田殿に先手を越された。わしは二番槍は嫌いだから、刀の一番槍をし申す」

 といって、

鎗を投げ打ち、刀をぬき、場所にて敵のすねを払い、頚骨をたたき、八人を斬り倒した。

(『甲陽軍艦』)。

 たしかに刀の一番槍であり、兄の分も働いたわけだった。

 この合戦は武田軍の勝利に帰したが、合戦後、二位は、

「名前は二位でも一位でなければ、気に食わぬ鳶の二位どの」

といわれて、甲州の町人、百姓の間でも評判になった。






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最終更新日  2021年04月25日 11時56分10秒
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