カテゴリ:馬場美濃守信房資料室
武田家臣 刀一番槍の鳶(とび)二位 武田信玄には異臣が多かった。 武田信玄十人の異臣 土橋治重氏著 「歴史読本」立体構成 武田信玄 昭和44年刊 一部加筆
鳶大弐、鳶二位の兄弟はもと紀州根来の法師であった。 弘治のころ(一五五五~五八)から武田家に仕えていたようだ。 二人とも合戦巧者で、ともに馬場美濃守の同心として、その存在を知られていた。 永禄十二年の夏、兄の大弐は駿河八幡平での北条勢との合戦に重傷を負った。 弟の二位は健在で、つぎの合戦には兄の分まで働こうと意気ごんでいた。 この年の十月、小田原まで軍を進めて城を囲んだ信玄は、 陽動作戦なのですぐ軍を返した。 だが、小田原勢が追尾してきて、〈三増峠の合戦〉になった。 馬場美濃守の備えには、 信玄の旗本から真田喜兵衛(のちの昌幸)が検使役としてやってきたが、 喜兵衛は検使の役目など忘れてしまったように槍をとって戦い、一番槍の功名をたてた。 それを見ていた鳶二位は、 「真田殿に先手を越された。わしは二番槍は嫌いだから、刀の一番槍をし申す」 といって、 鎗を投げ打ち、刀をぬき、場所にて敵のすねを払い、頚骨をたたき、八人を斬り倒した。 (『甲陽軍艦』)。 たしかに刀の一番槍であり、兄の分も働いたわけだった。 この合戦は武田軍の勝利に帰したが、合戦後、二位は、 「名前は二位でも一位でなければ、気に食わぬ鳶の二位どの」 といわれて、甲州の町人、百姓の間でも評判になった。
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