素堂跋 山 素 堂
こがねは人の求めなれど、求むれハ心静ならず。色は人のこのむ物から、このめば身をあやまつ。たゞ、心の友とかたりなぐさむよりたのしきハなし。こゝに隠士あり、其名を芭蕉とよぶ。はせをはをのれをしるの友にして、十暑市中に風月をかたり、三霜江上の幽居を訪ふ。
いにし秋のころ、ふるさとのふるきをたづねんと、草庵を出ぬ。したしきかぎりハ、これを送り猶葎をとふ人もありけり。
何となく芝ふく風も哀なり 杉 風
他ハもらしつ。此句秋なるや冬なるや。作者もしらず、唯おもふ事のふかきならん。予も又朝かほのあした、夕露のゆふべまたずしもあらず。霜結び雲とくれて、年もうつりぬ。いつか花に茶の羽織見ん。閑人の市をなさん物を、林間の小車久してまたずと温公の心をおもひ出しや。五月待ころに帰りぬ。かへれば先吟行のふくろをたゝく。たゝけば一つのたまものを得たり。
そも野ざらしの風は一歩百里のおもひをいだくや。富士川の捨子ハ其親にあらずして天をなくや。なく子は獨リなるを往来いくはく人の仁の端をかみる。猿を聞人に一等の悲しミをくはえて今猶三聲のなミだだりぬ。次のさよの 中山の夢は千歳の松枝とゞまれる哉。西行の命こゝにあらん。
猶ふるさとのあはれは身にせまりて、他はいはゞあさからん。誠や伯牙のこゝろざし流水にあれば、其曲流るゝごとしと、我に鐘期が耳なしといへども、翁の心、とくくの水
うつせば句もまた、とくとくしたゝる。翁の心きぬたにあれば、うたぬ砧のひゞきを傳ふ。昔白氏をなかせしは茶賣が妻のしらべならずや。坊が妻の砧ハいかにて打てなぐさめしぞや。それは江のほとり、これはふもとの坊、地をかゆともまたしからん。美濃や尾張のや伊勢のや、狂句木枯の竹斎、よく鞁うつて人の心を舞しむ。其吟を聞て其さかひに坐するに同じ。詞皆蘭とかうばしく、山吹と清し。しかなる趣は秋しべの花に似たり。其牡丹ならざるハ、隠士の句なれば也。風の芭蕉、我荷葉ともにやぶれに近し、しばらくとゞまるものゝ形見草にも、よしなし草にも、ならばなりぬべきのミにして書ぬ。
『芭蕉文集』…この跋は濁子本『野晒紀行畫巻』素堂跋と殆ど同様である。
(発行、岩波書店。杉浦正一郎氏・宮本三郎氏・荻野清氏共著)
『野晒紀行畫巻』… 中川濁子が畫を加え、素堂の跋と芭蕉の奥書がある。
甲子吟行 素堂序
我友ばせをの老人故郷のふるきをたぐねむついでに、行脚の心つきて、それの秋、江上の庵を出、またの年のさ月ごろに帰りぬ。見れば先頭陀のふくろをたゝく、たゝけばひとつのたま物を得たり。そも野ざらしの風ハ出たつあしもとに千里のおもひをいだくや、きくひとさえぞ、そぞろ寒け也。次に不二の見ぬ日そ面白きと詠じけるは、見るに猶風興まされるものをや。富士川の捨子ハ憶隠の心を見えける。かゝるはやき瀬を枕としてすて置けん、さすが流れよとハおもハざらまし。身にかふる物ぞなかりき。みどり子はやらむかたなくかなしけれどもと、むかしの人のすて心までおもひよせてあはれならずや。又さよの中山の馬上の吟、茶の烟の朝げしき、梺に夢をおびて、葉の落る時驚きけん詩人の心をうつせるや。桑名の海辺にて白魚白きの吟ハ、水を切て梨花となすいさぎよきに似たり。天然二寸の魚といひけんも此魚にやあらむ。ゆきゆきて、山田が原の神杉をいだき、また上もなきおもひをのべ、何事のおはしますとハしらぬ身すらなみだ下りぬ。同じく西行谷のほとりにて、いも洗ふ女にことよせける
に、江口の君ならねバ、答もあらぬぞ口をしき。
それより古郷に至りて、はらからの守袋より、たらちねの白髪を出して拝ませけるハ、まことにあはれさハ其身にせまりて、他はいはゞあさかるべし。しばらく故園にとゞまりて、大和廻りすとて、わたゆみを琵琶になぐさみ、竹四五本の嵐かなと隠家によせける。此両句をとりわけ世人もてはやしけるとなり。しかれ共、山路きてのすみ
れ、道ばたのむくげこそ、此吟行の秀逸なるべし。
それよりみよしのゝよしのゝおくにわけいり、南帝の御廟にしのぶ草の生たるに、そのよの花やかなるを忍び、またとくくの水にのぞみて、洗にちりもなからましを、こゝろ
にすゝぎけん。此翁年ごろ山家集をしたひて、をのずから粉骨のさも似たるをもつて、とりわき心とまりぬ。おもふに伯牙の琴の音、こゝろざし高山にあれば、峨々ときこへ、こゝろざし流水にあるときハ流るゝごとしとかや。我に鐘子期がみゝなしといへども、翁のとくくの句をきけば、眼前岩間を伝ふしたゝりを見るがごとし。同じくふもとの坊にやどりて坊が妻に砧をこのミけん。むかし、潯陽の江のほとりにて楽天をなかしむるハ、あき人の妻のしらべならずや。坊が妻の砧は、いかに打ちて翁をなぐさめしぞや。ともにきかまほしけれ。それハ江のほとり、これハふもとの坊、地をかふるとも又しからん。いづれの浦にてか笠着てぞうりはきながらの歳暮のことぐさ、これなん皆人うきよの旅なることをしりがほにして、しらざるを諷したるにや。
洛陽に至り、三井氏秋風子の梅林をたずね、きのふや鶴をぬすまれしと、西湖にすむ人の鶴を子とし、梅を妻とせしことをおもひよせしこそ、すみれ・むくげの句のしもにたゝんことかたかるべし。美濃や、尾張や、大津のや、から崎の松、ふし見の桃、狂句こがらしの竹斎、よく鞁うつて人のこゝろをまなバしむ。こと葉皆蘭とかうばし
く、やまぶきと清し。静なるおもひ、ふきハ秋しべの花に似たり。その牡丹ならざるハ、隠士の句なれば也。
風のはせを、霜の荷葉、やぶれに近し。
しばらくあとにとゞまるものゝ、形見草にも、よしなし草にも、ならバなるべきのミ、のミにして 書ぬ。
かつしかの隠士 素 堂
甲子吟行
この紀行は芭蕉の真蹟に素堂自筆の跋の附いたものが、門人曾良の手から贄川某に傳へられ、寄山といふ人が之を模写して同門の波静に與へ、安永九年(1780)に星運堂から発刊された。云々
(『俳聖芭蕉』野田別天樓氏著。昭和十九年刊)
野晒紀行
野晒紀行畫巻は芭蕉の門人中川濁子が畫を加へ、素堂の跋と芭蕉の奥書のあるもので、本分の筆者は芭蕉でなく、素堂との説もあるが、確実ではない。原畫巻は東京の大橋家に珍蔵されてゐる。云々
(『俳聖芭蕉』野田別天樓氏著。昭和十九年刊)
芭蕉…
貞享元年八月、四十一才の芭蕉は、門人千里を伴い、江戸深川を出発。東海道を伊勢国まで直行し、郷里の伊賀国に着いたのは九月の初め、母の白髪に慟哭、千里と別れ、ひとり吉野の奥に西行を訪ねた。美濃国大垣の木因に寄舎し、次いで尾張国では『冬の日』五歌仙を巻く。越年を故郷で過ごし、奈良-京都-伏見-大津を経て再び尾張国を訪ね、甲斐国に立ちより、貞享二年四月末日に深川に帰庵する。
書名は「草枕」
「のざらしの集」
「芭蕉翁野佐らし紀行」
「野晒紀行」
「芭蕉甲子吟行」
などと呼ばれた。その後次第に整理されて「野ざらし紀行」・「甲子吟行」と整理されてきた。
素堂、野ざらし讃唱 素堂の和詩「野ざらし讃唱」(高橋庄次氏紹介)によれば、
江戸に戻った芭蕉は「野ざらし」と「草枕」をそのまま生かして、間に木因との小旅行で得た三句を挿入し、「草枕」の末尾に尾張から江戸に戻る帰路の六句を付け加えて、全体の題号を「野ざらし」として、一巻にまとめ上げた。
こうして貞享四年。野ざらしの段、草枕の段、名残りの段の三段構成の『野ざらし絵巻』となって完成した。その時芭蕉は素堂の跋詩文「野ざらし讃唱」を加え、これが大きな役割を演じ、芭蕉の本文と素堂の讃唱が大きな唱和形態を素堂讃唱の効果は見事な詩文を構成し、本文とのハ-モニ-を作り出した。
素堂跋文
『旅路の画巻』
素堂の跋によると、琴風の家にあった立圃と其角の画を見た芭蕉が自ら旅路の風景を描き、大垣の中川濁子加彩させたという)
風流とやせん、名印あらざれば、炎天の梅花雪中の芭蕉のたぐひにや沙汰せ
ん。されば彼翁の友にいきのこりて、証人たらんものは我ならずしてまたた
そや。
しもつさの国かつしかの散人素堂 花押
参考
『国文学』「俳諧紀行文の誕生」、もう一つの表現。米谷巌氏著。 昭和54年10月号
「かへれば先ず吟行のふくろをたたく、たゝけば一つのたまものを得たり」と素堂が語っているように、野ざらしの旅土産は、貞享二年四月の帰庵後直ちにつづられて、待ち受ける素堂・其角ら周囲の門友に披露されたものと推測される。(中略)なお、泊船本の原点に付されていたという素堂の跋文は、狐屋本および濁子本に書写されている素堂跋文(短文型)とおそらく同種のものであろう。(略)ちなみに素堂の跋文には、他に長文の類似のものがあり、素堂の自筆が芭蕉真蹟画巻の巻初に、序文の形で貼付けされている。その長文型の序文の作者及び執筆年次についても議論がある。(略)素堂の自筆と認められる序文(岡田利兵衛『図説芭蕉』34頁)が出現した現在、偽作説はもはや問題にならない。
(略)素堂は、やはり落款のない芭蕉の遺稿『旅路の画巻』(三巻一軸)にも跋文を寄せて、
「名印あらざれば、炎天の梅花・雪中の芭蕉のたぐひにや沙汰せん。
されば彼翁の友にいきのこりて、証人たらんものは我ならずしてまたたそや
と述べている。芭蕉没後の素堂にこのような気持ちがあったことを参酌すれば、ましてかって跋文を贈った因縁のある野ざらし紀行の、無署名の自筆画巻のために快く懐かしく筆を執ったであろうと想像される。(以下略)
『野ざらし紀行翠園抄』 (序跋付録を省き本文のみ翻刻) 積翠編。 (『国語国文学研究史大成』12)
此紀行は貞享元年にして、桃青四十一歳なり。今世に行はるゝ甲子吟行と題せるもの也。云々
猿を聞人捨子秋の風いかに
素堂評 … 富士川の捨子は憶測の心ぞみえける。かゝる早瀬を枕として捨置けん、さすがに流にはとおもはざるまじ。身にかふる物ぞなかりき。みどり子はやらん
かたなくかなしけれども、と昔の人の捨心まで思よせて哀れなら
ずや。
馬上吟
道のべの木槿は馬にくはれけり
素堂評 … 山路来ての菫、道ばたのむくげこそ、此吟行の秀逸なるべけれ。
みそか月なし千とせの杉を抱あらし
素堂評 … ゆきゆきて山田が原の神杉をいだき、又うへもなきおもひをの
べ、何事のおはしますとは知らぬ身すがらもなみだ下りぬ。
芋あらふ女西行ならば歌よまん
素堂評 … 西行谷のほとりにて芋洗ふ女にことよせけるに、江口の君ならねば答もあらぬぞ口おしき。其日のかへさある茶店に立寄りけるに、てふといひける女、あが名に発句せよといふて白き を出しけるに書付侍る。
わた弓や琵琶になぐさむ竹の奥
素堂評 … わた弓に琵琶なぐさみ、竹四五本の嵐哉と隠家によせける。此両句をとりわけ世人もてはやしけると也。
しかれども山路来ての菫、道ばたのむくげこそ此吟行の秀逸なるべけれ。
砧打て秋にきかせよ坊が妻
素堂評 … 麓の坊にやどりて坊が妻に砧このみけん。昔潯陽の江のほとりにて楽天を泣
しむるはあき人の妻のしらべならずや。坊がつまの砧はいかに打
て翁をなぐさめしにや。
明ぼのや白魚しろき事一寸
素堂評 … 桑名の海辺にて魚の白き吟は、水を切て梨花となすいさぎよさに似たり。天然二寸の魚といひけんも此魚にやあらん。
年くれぬ笠着て草鞋はきながら
素堂評 … 笠着てぞうりはきながらの歳暮のごとき、是なん浮世の旅なる事を知らざるを諷したるにや。
物白しきのふや鴨を盗れし
素堂評 … 洛陽に至り三井秋風子の梅林を尋ね、きのふや鴨を盗れしと西湖に住人の鴨を子とし、梅を妻とせし事をおもひよせしこそ菫むくげの句の下にたゝ事かたかるべし。
山路来て何やらゆかし菫草
素堂評 … 山路来てのすみれ、道ばたのむくげこそ、この吟行の秀逸なるべけれ。
素堂の詩 『俳諧二百年史』
素堂を以て一廉の詩文に精通せるものゝ如く云へるのは、甚だ以て解すべ
からざる所なりとす、素堂の詩文の如きは随分と迷惑なものにして、精通
とか巧妙とかうふべき程のものにあらざるを、芭蕉が之を以て精通云々せ
るは、悪く之は解釈する時は彼は素堂に限らず敢て何人に對しても阿諛せ
りと認むる能はざるを以て、然らば盲従せしものか如何。
『俳諧史上の人々』 高木蒼梧著
先般夏目成美手澤の「素堂家集」二冊及び坎窩久臧の「素堂家集」二冊よ
り、素堂の漢詩五十数篇を得て一閲するにその漢詩文は實に堂々たるもの、
老手にあらざれば道破し得ざる底のものが多いのに一驚した。なまかに浅
学の筆者が論評するよりもと考へ、これを漢詩壇の泰斗國府犀東先生に寄
せて批評を需めたるに、その一説に曰く、
箇様に褒め立てゝ見ると、宗人の唾餘を拾はず、唐賢の下風を拜せず、
夐かに漢魏六朝の上にまた躋ぼって、先泰周季に力を得て居る。薀蓄の
啻ならぬ詩壇の一巨擘であるかのやうに見える。さうして殊に古文辭学
派の起こり來らんずる先驅をなし、宗儒道学者流の口吻を一擲し去った。
一新機軸の新作家であるやうに認めらるゝ。古文辭学派の詩人を、その
まだ起り來らざる前に當つて、アッと云はせるだけの力があったばかり
でなく、同時に又宗代の新流行であった詞餘の調子をも取り入れること
を知ってゐた所のハイカラであった。云々。
俳誌「石楠」昭和三年四月號に
「素堂の詩境凡ならず、國府犀東」「素堂の詩文、高木蒼梧」に二文がある。
これは従来褒貶一ならざりし素堂の漢詩文に就て、正しき帰結と見る
事ができやう。詞藻は別として、学問の造旨は芭蕉より深く、當時の
俳諧者流に於て、第一の碩学たりしは疑ふべくもない。云々