カテゴリ:山口素堂・松尾芭蕉資料室
芭蕉、十月十二日大阪にて歿。 〔芭蕉の死〕『芭蕉年譜大成』今栄造氏著。(掲載書名は略) 夕刻、上方旅行中の其角が芭蕉の急を聞 いて馳せ参じる。 夜、看護の人々に夜伽の句を作らせる。丈草・去来・惟然・支考・正秀・木節・乙州らに句あり。 この内丈草句、うずくまる薬の下の寒さ哉 のみを「丈草出来たり」と賞す。 この折の 付添人は、去来・其角・乙州・支考・丈草・惟然・正秀・木節・呑舟・次郎兵衛の十人。 支考が師の髪を剃り、智月と乙州の妻 が浄衣を縫う。 埋葬は、臥高ら三名の戻りを待って明日に延期される。 夜、子ノ刻(午後十二時頃)葬儀。同境内に埋葬する。 導師、同寺直愚上人。門人焼香者八十人。 会葬者三百余人。 伊賀の土芳・卓袋両人、十三日に師危篤の報を得て大阪に急行。 廻り道してこの日朝、義仲寺に至る。 両人、師の行脚中使用の遺品を改めて伊賀の兄半左衛門のもとに送る。 十月十八日、於義仲寺、追善の誹諧 なきながら笠に隠すや枯尾花 晋子(其角) 十月廿三日追善 秋中に殘らずつけし蔵の壁 桃隣 義仲寺へ送る悼 生年不詳、~正徳六年(1716)歿、年五十四才とも六十一才とも。 元禄五年(1692)に芭蕉と相識り、『奥のほそ道』を清書し跋文を寄せた。 本領は歌学で幕府歌学方季吟に接近し、 元禄十三年(1700)頃、柳沢吉保の禄を得て、 将軍綱吉の前で『源 氏物語』を購読する栄に浴した。 吉保の息子吉里にも仕え、柳沢家の和歌指南として謹仕し没した。 岱水 生没年不詳。貞享~宝永頃。貞享四年(1687)の『伊賀餞別』に苔翠の号で入集以来芭蕉庵の側に住居する。著に『木曾の谷』がある。 湖春 慶安元年(1648)生、~元禄十年(1697)歿。年五十才。 『続山井』を編んだ。以後父季吟の実務担当者として活躍し、 後京都で活躍。元禄二年(1689)に父とともに幕府に歌方として招かれる。 素堂……曾良宛書簡(妻の死)
定而御聞可被成候、
御同然ニ残念ニ存事ニ御座候、
嵐雪・桃隣二十五日ニ上り申され候、尤ニ奉存候。
前掲の素堂、曾良宛書簡により、素堂の妻の死が確認できる。
これまでの素堂伝記諸本による、
素堂の母の死(元禄三年説/荻野清氏)や素堂は妻を娶らずなどの伝記は史実ではない。
又、素堂の生家は酒造業であったとの伝記も根拠のない説で、後世に於いての創作である。
この書簡は素堂の数少ない書簡である。全文を掲げた紹介書は未見である。
《註》 参考資料 『連歌俳句研究』森川昭氏紹介
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年04月25日 11時39分00秒
コメント(0) | コメントを書く
[山口素堂・松尾芭蕉資料室] カテゴリの最新記事
|
|