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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年04月17日
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芭蕉、十月十二日大阪にて歿。
 

〔芭蕉の死〕『芭蕉年譜大成』今栄造氏著。(掲載書名は略)
 十月十一日
 この朝から食を廃し、不浄を清め、香を焚いて安臥する。

夕刻、上方旅行中の其角が芭蕉の急を聞 いて馳せ参じる。

夜、看護の人々に夜伽の句を作らせる。丈草・去来・惟然・支考・正秀・木節・乙州らに句あり。

この内丈草句、うずくまる薬の下の寒さ哉 のみを「丈草出来たり」と賞す。
  
十月十二日
 
申の刻(午後四時頃)歿す。
 遺言により、遺骸を湖南の義仲寺に収めるため、夜、淀川の河舟に乗せて伏見まで上る。

この折の 付添人は、去来・其角・乙州・支考・丈草・惟然・正秀・木節・呑舟・次郎兵衛の十人。
膳所の臥高・昌房・探志ら三名、行き違い大阪に下る。
 
十月十三日
朝、伏見を発し、昼過ぎ湖南の義仲寺に遺骸を運び入れる。

支考が師の髪を剃り、智月と乙州の妻 が浄衣を縫う。

埋葬は、臥高ら三名の戻りを待って明日に延期される。
十月十四日

夜、子ノ刻(午後十二時頃)葬儀。同境内に埋葬する。

導師、同寺直愚上人。門人焼香者八十人。 会葬者三百余人。
十月十六日

伊賀の土芳・卓袋両人、十三日に師危篤の報を得て大阪に急行。

廻り道してこの日朝、義仲寺に至る。

両人、師の行脚中使用の遺品を改めて伊賀の兄半左衛門のもとに送る。
杖・笠・頭陀は義仲寺奉納と決まる。
 
十月二十五日
この日、義仲寺境内に無縫塔が建立される。高さ二尺余の青黒の自然石の表に「芭蕉翁」背に年月 日を記す。

 素堂 『枯尾花』発句一入集。其角編。「芭蕉翁終焉記」

   十月十八日、於義仲寺、追善の誹諧

  なきながら笠に隠すや枯尾花   晋子(其角)
  温石さめて皆氷る聲       支考  温石=をんじゃく
  行灯の外よりしらむ海山に    丈艸
  やとはぬ馬士の縁に来て居る   惟然
  つみ捨し市の古木の長短     木節
  洗ふたやうな夕立の顔      李由
  森の名はほのめかしたる月の影  之道
  野かげの茶の湯鶉待也      去来
  水の霧田中の舟をすべり行    曲翠
  旅から旅へ片便宜して      正秀
  暖簾にさし出ぬ眉の物思ひ    臥高
  風のくするを惣くがのむ     泥足
  こがすなと齋の豆腐を世話をする 乙州
  木戸迄人を添るあやつり     芝柏 (以下略)

  十月廿三日追善
  亦たそやあゝ此道の木葉掻    湖春
  一羽さびしき霜の朝鳥      素龍
  碇網綰なる月に浪ゆりて     露沾  綰 -わが
  野分の音のかはる兀山      萍水  兀山-はげやま

  秋中に殘らずつけし蔵の壁    桃隣
  青苧の長を引上にけり      岱水  青苧-あをう
  内かたは物やはらかな人づかひ  野坡
  ほろく雨の末は四五町      孤屋
  その形に紙で巻たる百合の花   利牛
   竈の火けして庵たて寄     杉風 竈 -くど
  雲水の身はいづちを死所     素堂
  帆をもつ舟は疊也けり      筆

 素堂…… 深草のおきな、宗祇居士を讃していはずや。
   友風月家旅泊
   芭蕉翁のおもむきに似たり
  旅の旅つゐに宗祇の時雨哉 素堂

  義仲寺へ送る悼
 氷るらん足もぬらさで渡川   法眼 季吟
 告て来て死顔ゆかし冬の山      露沾
 凩の聲に檜原もむせびけり      素龍
 
 素龍

 生年不詳、~正徳六年(1716)歿、年五十四才とも六十一才とも。
 通称義左衛門 。もと阿波国徳島藩士。

元禄五年(1692)に芭蕉と相識り、『奥のほそ道』を清書し跋文を寄せた。

本領は歌学で幕府歌学方季吟に接近し、

元禄十三年(1700)頃、柳沢吉保の禄を得て、

将軍綱吉の前で『源 氏物語』を購読する栄に浴した。

吉保の息子吉里にも仕え、柳沢家の和歌指南として謹仕し没した。

 岱水

 生没年不詳。貞享~宝永頃。貞享四年(1687)の『伊賀餞別』に苔翠の号で入集以来芭蕉庵の側に住居する。著に『木曾の谷』がある。

 湖春

 慶安元年(1648)生、~元禄十年(1697)歿。年五十才。
 季吟の長男。幼時から父の俳席に列して腕を磨き寛文七年(1667)宗匠として独立。

『続山井』を編んだ。以後父季吟の実務担当者として活躍し、

後京都で活躍。元禄二年(1689)に父とともに幕府に歌方として招かれる。

素堂……曾良宛書簡(妻の死)
  御無事ニ御務被成候哉、其後便も不承候、
  野子儀妻ニ離申候而、当月( )ハ忌中ニ
  而引籠罷候。

  一、桃青大阪ニて死去の事、

定而御聞可被成候、

御同然ニ残念ニ存事ニ御座候、

嵐雪・桃隣二十五日ニ上り申され候、尤ニ奉存候。
  一、元来冬至の前の年忘れ素堂より始まると名立ち候。
    内々ノみのむしも忌明候ハゞ其日
    相したゝめ可申候、其内も人の命
    ははかりがたく候へ共、云々
  一、例ノ年忘れ、去年ハ嵐雪をかき、
    今年は翁をかき申候、明年又たそや

素堂書簡 曾良賀丈宛
 素堂 妻の死のため芭蕉の葬儀(大阪)へ行けず。
 《註》

前掲の素堂、曾良宛書簡により、素堂の妻の死が確認できる。

これまでの素堂伝記諸本による、

素堂の母の死(元禄三年説/荻野清氏)や素堂は妻を娶らずなどの伝記は史実ではない。

 又、素堂の生家は酒造業であったとの伝記も根拠のない説で、後世に於いての創作である。

この書簡は素堂の数少ない書簡である。全文を掲げた紹介書は未見である。
 

《註》 参考資料 『連歌俳句研究』森川昭氏紹介
   『俳諧ノ-ト』星野麦久人氏著
   『芭蕉の手紙』村松友次氏著 








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最終更新日  2021年04月25日 11時39分00秒
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