素堂、芭蕉追善句文(刊行年による)
『枯尾花』…… 元禄七年(1694)
深草のおきな宗祇居士を讃していはずや、友 風月
家 旅泊 芭蕉翁のおもむきに似たり。
旅の旅つゐに宗祇の時雨哉
雲水の身はいづちを死所
『翁草』…… 元禄九年(1696)
頭巾着て世のうさ知らぬ翁草
『陸奥鵆』…… 元禄十年(1697)
亡友芭蕉居士、近来山家集の風体をしたはれければ
追悼に此集を読誦するものならし。
あはれさやしぐるる比の山家集
『柱暦』……茶の羽織おもへば主に穐もなし
『続有磯海』…… 元禄十一年(1698)
ばせを墓にまうでて手向草二葉
秋むかし菊水仙とちぎりしが
苔の底泪の露やとどくべし
『芭蕉庵六物』…… 元禄十二年(1699)
予が家に菊と水仙の畫を久しく翫びけるが、ある時ば
せををまねきて、此ふた草の百草におくれて霜にほこ
るごとく、友あまたある中にひさしくあひかたらはん
とたはぶれ、菊の繪をはなして贈る時、
菊にはなれかたはら寒し水仙花
『はだか麦』…… 元禄十三年(1700)
芭蕉庵三回忌
歎とて ぞ残る垣の霜 ナゲゝ フクベ
『冬かつら』…… 元禄十四年(1701)
ことしかみな月中の二日、芭蕉の翁七回忌とて、翁の
住捨ける庵にむつまじきかぎりしたひ入て、堂あれど
も人は昔にあらずといへるふるごとの、先思ひ出られ
て涙下りぬ。空蝉のもぬけしあとの宿ながらも、猶人
がらのなつかしくて、人々句をつらね、筆を染て、志
をあらはされけり。予も又、ふるき世の友とて、七唱
をそなへさえりぬ。
其 一
くだら野や無なるところを手向草
其 二
像にむかひて
紙ぎぬに侘しをまゝの佛かな
其 三
像に声あれくち葉の中に帰り花
其 四
翁の生涯、風月をともなひ旅泊を家とせし宗祇法師に
さも似たりとて、身まかりしころもさらぬ時雨のやど
り哉とふるめきて悼申侍りしが、今猶いひやまず。
時雨の身いはゞ髭なき宗祇かな
其 五
菊遅し此供養にと梅はやき
其 六
形見に残せる葛の葉の繪墨いまだかはかぬがごとし。
生てあるおもて見せけり葛のしも
其 七
予が母君七そじあまり七とせに成給ふころ、文月七日
の夕翁をはじめ七人を催し、万葉集の秋の七草を一草
づゝ詠じけるに、翁も母君もほどなく泉下の人となり
給へば、ことし彼七つをかぞへてなげく事になりぬ。
七草よ根さへかれめや冬ごもり
といふものはたそや武陽城外葛村之隠素堂子也
『そこの花』…… 元禄十四年(1701)
芭蕉の塚に詣して
志賀の花湖の水それながら
『きれぎれ』…… 芭蕉塚にて
志賀の花湖の水それながら
『渡鳥集』…… 芭蕉居士の舊跡を訪
志賀の花湖の水それながら
『追鳥狩』…… 此句粟津翁塚に手むけぐさとなん
夢なれや梅水仙とちぎりしに
『三河小町』…… 元禄十五年(1702)
ちからなく菊につゝまるばせをかな
『木曾の谷』…… 宝永 元年(1704)
あはづ芭蕉塚にて
志賀の花湖の水それながら
『千句塚』……しぼミても命長しや菊の底 (前書、本文参照)
『誰身の袖』…… 去来丈追善の集編せらるゝのよし傳へ聞侍りて、風雅
のゆかりなれば、此句をあつめて牌前に備ふ。元察子
執達給へ。
枯にけり芭蕉を学ぶ葉廣草
『東山萬句』…… 宝永 三年(1706)
前のとしの春ならん湖南の廟前に手向つる句をふた
ゝびこゝに備るならし。
志賀の花湖の水それながら