カテゴリ:著名人紹介
相原 三有楽(あいはら さうら)
山梨百科事典 山梨日日新聞社刊
1829(:文致12)11・25- ?
甲斐国巨摩郡北山筋御岳村(甲府出御岳町)金桜合神社の神主、相原相模の長男。 神主御師(おし)のかたわら1834(天保5)年いらい御田に伝わった水晶研摩の技術を覚え、 玉や印材など初期の作品から進んで、細工ものに技巧に富んだものを作った。 1876(明治9)年、県令藤村紫朗は水晶工芸を甲州特産品に育成するため、 甲府城内に設置した勧業試験場の一部を使って、 水晶加工講習会を1年もにわたり聞いた。
三有楽はこの指導者に御岳から招かれた名工3人の1人で最年長者。 翌年8月、東京上野公園で聞かれた第1回内国勧業博覧会に、 山梨県からは生糸、織物など440点を出品、 うち水晶関係は56目、150点だった。
三有楽の出品は水品玉36個をはじめ、 メガネ、時計鎖、花びん、指輪など16口、約90点。 特に後世、 水晶装身具で輸出の王座を築いた首飾りの先駆「首掛け」を考え出品した。 「玉二具、十八角一員、二十六角一員、八角一員、草入玉一員、草入ナツメ形三揃」 と記録にあり、それぞれを一連にしたものであったが、 18角、26角、8角と切り子の多面と角度から、 放つ水晶の反射光をひき出すことが考えられ、 これにナツメ形の異形を添えて一連とした工夫は後世に多くの示唆を与えた。 また「十字水晶」の切り子で「襟飾り」を作っているのも、 後世のブローチの先駆となった。 このほか明治(1868-1912年)後期以後流行した水晶花瓶や香炉の取手に、 同体の水晶から切り抜いて作る連環の初期の作品もあり、 水晶工芸界初期の名工である。 1901(明治34)年、東京市神田区神田堅大工町へ転籍後に没している。 <小沢秀之氏著>
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最終更新日
2021年04月25日 11時13分02秒
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