2312369 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2019年04月19日
XML

天草は、昔から肥後の国に属しており、現在の名称は、熊本県天草郡となっている。上島、下島、大矢野島、衡所浦島の外、大小幾つかの鳥から成立っている。本土の熊本県とは、不知火で有名な八代海を隔てており、肥前島原とは早瀬海峡でくぎられ、西方は波荒い東支那海にのぞんでいる。周囲みな海によってかこまれているので、天草郡というより、天草諸島といった方が、適切な呼びかたのような気かする。現在では、宇土半島から大矢野島、上島、下島と、天草五橋によって、本土熊本県と緊がれているが、昔は舟運による連絡しかなかったわけである。

 

天草は平地が少なく、充分な農耕作業が出来ず、半農半漁の経済生活で、其他の資源も人口に比例して少なかったので、島民の生活は豊かでは無かった。従って島民の中には出稼ぎのために島を離れるものが多かったようである。殊に女の出稼ぎ人は.「唐行(からゆき)さん」といって、売春婦となって外国へ売渡されて行った。「からゆきさん」とは、「唐人行(からひとゆき)」または、「唐(から)ん国行(くにゆき)」という言葉の縮まったもので、幕末から明治の一代を通し、大正の中頃まで祖国をあとに、北はシベリヤから中国大陸、東南アジヤ諸国をはじめ、インド、アフリカ万面まで出かけて行き、外人相手に春を売った海外売春婦のことをいうのだそうである。

 

その出身地は、日本全国に及んだというが、特に九州の天草や島原半島が多かったといわれている。結局は、天草や島原の自然的、社会的な貧困の中から生れでた裏話であって、今もってその数々の物語が語られているという。また天草は切支丹の島ともいわれている。生産カの低い、貧困を余儀なくされている地方であるだけに、切支丹が島民の間に浸透し、拡がって行ったのは当然であった。しかも当時の領主であった小西行長は、有名な切支丹大名であったから、その伝導力は燎原の火にも似て拡がって行った。切支丹の爆発的な伝播カと、その潜在勢カを恐れた豊臣秀吉も切支丹排除の気持があったようであるし、隈本(後熊本)の領主加藤清正は熱心な法華経の信者だったので、抑圧にカを注いだが遂に成らず、天草を放棄している。

 

慶長七年(一六〇二)肥前国唐津の寺沢広高が天草を兼帯所領して、下鳥の北西の突端、袋の浦(冨岡)に城を築いて城代をおいた。これが冨岡城である。現在はこの処に、富岡切支丹供養碑が建てられている。寺沢広高という人は、長崎奉行をつとめたこともあり、一応、切支丹に理解をもっていたので、幕府の切支丹禁令がでてからも壱岐、上津浦(こうづうら)、崎津などには教会もあって布教も行われていた。しかし慶長十八年(一六一三)になると、切支丹禁止令が強化されて、信者の大検挙や、宣教師の追放が行なわれた。

 

マルコスという宣教師も上津浦を追われたが、その時、「当年より二十五年目に美しい童子が現われて、諸人の頭にクルスを立てて云々」と、後の天草四郎の出現を予言して去ったそうである。その後の二十五年目にあたる寛永十四年(一六三七)は大凶作であった。とくに前年の寛永十三年の天草は、特にひどかったそうである。しかも寺沢検地は生産カを超える年貢の取立を行ったので、この非道な検地収奪に、島民の怒りは遂に爆発して、寛永十四年十月、島原におこった一揆に呼応して天草の島民もたった。これが世に云う切支丹の蜂起である。そこで熊本城主細川氏はこれを鎮圧しようとして天草に出兵したところ、富岡城を包囲攻撃しておった一揆軍は、細川軍来援の報せに、急遽全員天草を捨て島原に渡った。

 

その時の一揆軍の総勢は、男女合せて一万四〇〇〇人で、天草の全人口の半分近く島を離れたそうである。マルコスの予言通り出現した若武者天車四郎を中心とする原城の一揆軍の勢カは強く、幕府軍の総指揮官板倉重昌が戦死した程であったので、驚いた幕府は、老申松平信綱(知恵伊豆)佐派遣して、これを制圧にあたらせることになった。松平信綱は、折柄、平戸島に来ていたオランダの軍艦に依頼して、海から原城を砲撃した。オランダ新教と、ポルトガル旧教の争いを利用したわけであるが、卑劣なこのやりかは、民衆からも攻撃軍からも反対の声があって、オランダ軍艦も平戸へ引き揚げていってしまった。

 

細川忠則、光尚の父子は二万八○○○余の兵力で攻めたてたので、原城は寛永十五年二月二十八日に落城した。その時、本丸への一番乗りをして、天草四郎の首を取って手柄をたてたのは、細川軍の陣佐左衛門であった。原城が落ち、一揆は終了したが、一揆軍は全員三万四千人が玉砕し、攻撃した幕府軍も、八干人もの死傷看を出したという悲惨な戦であった。反乱の責任者として、島原城主松倉勝家は斬罪に処せられたが、大名の斬罪は類例がなかったという。

 

一方、非道な検地収奪をした寺沢堅高は丸天草の領地を没収され、果ては自殺してしまった。それで寺沢家は断絶してしまったそうである。大名も斬罪にあい自殺して果てもした。三万余人もの民衆も壮烈に戦死して一応一撲は終ったとはいうものの、切支丹は絶滅することは出来なかった。

これを契機に、切支丹は益々深く潜行し、根強く拡がって行ったので、幕府は、寛文五年(一六六五)、切支丹鑿奉行をおいて取締ったという。寛永十六年、鎖国令が発せられたのも、この切支丹一揆が大きな原因の一つであったということである。天草というところは、この切支丹一揆のみならず、鳥民の宿命というか、島の経済事情がそうさせるのか、随分昔から一揆や騒動の繰返しであったようでかる。(中略)

 






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2021年04月25日 08時59分32秒
コメント(0) | コメントを書く
[韮崎市歴史文学資料室] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

10/27(日) メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X