『連俳睦百韻』「序文」寺町百庵著
抑々素堂の鼻祖を尋ぬるに、河毛(蒲生)氏郷の家臣 山口勘助良佞後に佞翁と呼ぶ 町屋に下る。山口素仙 堂、太郎兵衛、信章、俳名来雪、其の後素仙堂の仙の 字を省き素堂と呼ぶ。云々
素堂の幼少から致任するまでの間の住所と住居の変遷は確かな資料が少ない。『国志』の言を全面的に信用したい所であるが、当時山口家が巨摩郡教来石村字山口に所在したかは疑わしいもので、現在の国道二十号線沿いの旧甲州街道(甲府から諏訪)は段丘の上を通過していて、山口集落の出現も徳川時代に入ってからの口留番所を設けて久しく経過してからの集落であり、徳川以前は国境の地としてまた常に戦争の狭間として人々の住める場所ではなかった。当然素堂の家(祖先を含む)が存在した可能性は少ない。現在の上教来石村字山口集落の段丘上に「海道」の地名が遺り、付近の墓所の墓石刻印も素堂没以後の年代の物が多く、当時『国志』素道の項の記述者が、山口素堂の氏「山口」の出処を甲斐に求めた結果、教来石村山口か該当する地名がなく困惑の結果の所産ではなかろうか。
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最終更新日
2021年04月25日 08時56分33秒
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