甲府 府中山口屋と素堂
さて甲斐府中(甲府)の魚町に在った魚町酒造業山口屋市右衛門家は本当に素堂の生家なのであろうか。これも『国志』の記述が現在では通説となっているが、その記述には曖昧さが感じられる。
先にも示した『連俳睦百韻』(佐々木来雪、三世素堂号襲名記念俳諧集)の序文を著した寺町百庵は『俳文学大辞典』によると、素堂の家系にあり、『連俳睦百韻』 には素堂の嫡孫素安より素堂号の継承を許可されたが、断わり佐々木来雪に譲った旨も記されている。この山口素安は素堂が死去した(享保元年…1716)後の享保二十年(1735)に素堂の追善を素堂亭にて実施している。所謂素堂の家系は甲斐府中ではなく、江戸に於て継承されているのである。
◎ 『国志』
其ノ先ハ州ノ教来石村山口ニ家ス因テ氏ト為ス。後 ニ居ヲ府中魚町ニ移ス。家頗ル富ミ、時ノ人ハ山口 殿ト称ス。……長ジテ市右衛門ト更ム。盖シ家名ナ リ。
ここで注意を要するのは魚町の山口屋は酒造業を営むとは記していないことである。当時魚町に住む山口屋市右衛門は確かに酒造業を営んでいた。元禄九年(1696)を示唆する「酒造業書上書」によれば、府中には山口屋を名乗る家が二軒あった。一軒は魚町山口屋市右衛門家で、他の一軒は上一条町の山口屋権右衛門である。 さて『国志』の記述によれば
少々自り四方の志あり。屡【しばしば】江戸に往還して章 句を林春斎に受く、(中略)遂に舎弟某に家産を譲 り、市右衛門を襲称使め、自らは官兵衛を名乗る。 とあり、不自然な記述である。それは素堂家が幼少の頃府中魚町に移住して忽ち富家になった事など当時の酒造業を始め他の産業にしても無理な話である。さらに「山口殿」と時の人々に呼ばれた事も有りえない事である。 もしこれを認めるなら素堂家は教来石村に在住した時から富豪であった事が必要である。しかし素堂が生まれた寛永十九年(1642)当時の甲斐の国は大飢饉に襲われ多くの人々が飢えに苦しみ死んでいったのである。そんな時代背景の中で素堂家が教来石村で富豪で過ごせる条件は皆無であり、集落さえなかった可能性もある。 またそんな中で府中に出ていって、府中山口屋を築く事など不可能に近い。
江戸時代の酒造業は厳しく幕府に管理されていて米一粒でも無駄にできず、勝手酒造は許されない仕組みになっていた。酒造業での一攫千金の業は有り得ない。
確かに山口屋は府中魚町四丁目西角に存在した。ここに山口屋市右衛門に関する確かな資料を提出する。
◎ 寛文十三年(1673)素堂三十三才。
『魚町宿取之覚』二月中…甲州文庫資料第二巻
当月九日に西郷筋上いますわ村拙者母
気色悪□御座候故いしゃにかゝり于今
羅有候
四丁目 市右衛門
◎ 貞享年間(1684~1687)素堂四十三~四十六才。
『貞享上下府中細見』…山梨県図書館蔵
一、魚町西側 表九間 裏へ町並
是は先規軒屋敷にて御座候処
四年以前子年隣買受け壱軒に
仕候付弐軒分之御役相勤申候
一、柳町四丁目 表八間 裏へ二拾二軒
北角 魚町市右衛門抱 四郎左衛門
一、川尻町弐丁目 表拾五間 裏へ三拾間
魚町市右衛門抱 家守六兵衛
この記録は素堂の生家としてよく引用される箇所である。しかし素堂と山口屋の関係が定かでない現在これをもって素堂の家が魚町山口屋で富家であったとは断定はできない。
◎ 宝永元年(1706)素堂六十五才。
◎ 『山田町宗旨改帳』…甲府市史第二巻
代々浄土宗府中尊躰寺旦那 印
市郎左衛門 印
同人 妻 印
是は府中魚町市右衛門娘拾三年以前
市郎左衛門妻ニ成 夫同宗ニ罷成候
◎ 享保九年(1724)
『山梨郡府中町分酒造米高帳』…甲府市史第二巻
元禄丁丑年造高 四拾三石五斗
卯造酒米石 拾四石五斗
魚町 山口屋 市右衛門 印
元禄丁丑年造高 四拾弐石弐斗四升
卯造酒米石 拾四石八斗
西一条町山口屋 権右衛門 印
《丁丑…元禄十年(1697)》
この山口屋市右衛門は素堂が江戸に出るとき家督を譲った舎弟の市右衛門なのだろうか。それを示す資料は存在しない。ここで弟に関する『甲斐国志』と『連俳睦百韻』の記述を比べてみると、
◎ 『甲斐国志』
遂ニ舎弟某ニ家産ヲ譲リ、市右衛門ヲ襲称使メ、自ラ官兵衛ト改ム。時ニ甲府ノ御代官桜井孫兵衛政能ト云フ者能クソノ能ヲ知リ、頻ニ(素堂)ヲ招キテ僚属と為ス。
◎ 『連俳睦百韻』
山口素仙堂 太郎兵衛来雪(中略)其の弟に世を譲家 臣り後の太郎兵衛、後法躰して友哲と云ふ。後桑村三素仙右衛門に売り渡し(素堂の生家を)侘家に及ぶ、(中略)其の三男山口才助訥言林家の門人尾州【尾張】 摂津公の儒臣、其の子清助素安兄弟多くあり皆死す。 其の子幸之助侘名片岡氏を続ぐ。云々
両書で共通なのは弟に家を譲る箇所だけである。素堂の親族には儒学者が多くあり、甲府魚町酒造業山口屋とは関係のないことが分かる。
後世山口姓を名乗る甲府の某家は、『国志』を読んだ関係者に云われて、素堂の家系に繋がるような言動を余儀なくされたと思われる。山口屋市右衛門家の家系は甲府で繋がり、現在も連綿として継続されていると思われるが、残念ながら素堂とは何ら関係のない家系である。明治時代になって関係者が治水碑を甲府や東京に建立したりして、素堂は土木業者の鑑となってしまった。これらは『国志』を盲信して真実の探究を怠った結果である。素堂誤伝は『国志』から出発した言っても過言ではない。それほど山梨県にとって国書の記述の影響は大きいのである。
また素堂が江戸に出たとされる寛文元年(1661)の前年の万治三年には甲府は大火に見舞われている。山口屋も勿論焼失した可能性が高い。復興に明け暮れる中で弟に家産を譲り江戸に出ることなど考えられない。
文学研究者は時によるとその当時の歴史背景や資料を照合せずに記述される場合もある。これは素堂の生家を郷士であったとしたり、踏査をせずに資料を重ね合わせて新歴史として論ずることなどである。