元禄七年(1694)の冬のこと
(妻の死)
素堂、曾良宛書簡
紹介書…『連句俳句研究』森川昭氏 …『俳諧ノ-ト』 星野麦久人氏
…『芭蕉の手紙』 村松友次氏
御無事に御務被成候哉、其後便も不承候、野子儀(素堂)妻に離申候而、当月は忌中に而引籠候。
一、桃青(芭蕉)大阪にて死去の事、定而御聞可被哉、御同然に残念に存事に御座候、嵐雪、
桃 隣 二十五日に上り申され候、尤に奉存候。
一、元来冬至の前の年忘れ素堂より始まると名立ち候。
一、内々のみのむしも忌明候はゞ其日相したゝめ 可申候其内も人の命ははかりがたく候へ共… 云々
例の年忘れ、去年は嵐雪をかき、今年は翁をかき申候、明年又たそや。
曾良雅丈 素堂
◎ 元禄五年(1692)のこと
(妹の死)
『芭蕉句選年功』
芭蕉の句 埋火や壁には客の影法師
杉風家蔵真蹟に「素堂が妹の身まかりける時」と前書あり。
素堂には妻も在り、妹もいたのである。父の存在や死去年は定かではなく、資料も見当たらないし素堂も触れていない。母の死去が元禄八年、母の喜寿の祝い(七十七才)を元禄五年に芭蕉以下で催しているので素堂の母は八十才まで生存したこととなる。元禄五年時、素堂は五十一才、素堂は母二十六才の時の子供となる。この素堂の母を甲斐府中魚町山口屋市右衛門の先妻とする説も在り、それは素堂が母を伴い二十才の頃江戸に出たとするものである。この説も何ら資料を持たないものである。 さて素堂の家系について、忘れてはならないのが山梨県立図書館にその多くの著書が蔵書されている山口黒露のことである。山口黒露は素堂の甥と紹介され、素堂の臨終から葬儀は黒露が仕切っている。又一回忌追善俳諧集『通天橋』を刊行している。