カテゴリ:山口素堂資料室
素堂翁余話『枇杷園句集』士朗編。文化十三年(1810)刊。
○ 『枇杷園句集』…びわえんくしゅう。 日本俳書大系 巻十四 巻之四 冬 時 雨 はつ時雨野守が宵のことばかな 鳴海にてしぐれそめけり草鞋の緒 竹葉軒 さゝ竹にさやさやと降すぐれ哉 獨居や古人がやうの小夜しぐれ 芭蕉忌 世にふるはさらにはせをのしぐれ哉 素堂は芭蕉の善友なり。一日風のばせをの破れやすく、 霜の荷葉のかゝるを悲しみ、 世の形見草にもとて甲子吟行を評して曰、 静なるおもむきは秋しべの花に似たり。 その牡丹ならざるは隠士の句なればなりと。 けふまた其静なる趣を弄して手向草とす。 月時雨さりとては古きけしきかな 一雲に夜はしぐれけり須磨明石 山茶花の手をかけたれば時雨けり 茶室 迎友 窓ぶたになるやしぐれの松のかげ 夜しぐれに小鮑焼なる匂ひかな
素堂よもやま『俳諧茶話』 雇言編。嘉永七年(1854)安政元年
一門云、曠野集(ひろのしゅう)に、 蓮の實の抜け盡したか蓮の實か 越人
此句、ある人の説に、越人、素堂亭へ行に、 例の蓮池より蓮の實を取りてもてなすに、 皆くひ盡して、ぬけ盡したる蓮の實がもうないかと、 馳走を忝くするの挨拶也。 物を残すは不敬にあたれば、かくは興ぜし句作也といへり。いかゞ。
一答、 さにはあらざるべし。 越人が素堂の所へ行て蓮の實の馳走にあひたるにもせよ、 皆喰ひ盡して、ぬけ盡したる蓮の實がもうないかと、 馳走を忝くするの挨拶也とはおかしからず。 愚案にては蓮は花の清香なるもの也とも云て、 佛家その清香を愛して、 専ら 蓮花を玩びて佛座とも成し、 又浄土の池中、其花の大サ車輪の如しとも説り。 唐土には美人の顔(かんばせ)にもたとへたり。 芙蓉モ不及美人ノ粧といふも、 其蓮花の清香の、かたちよりはまたまさりて美人なりといふ事也。 芙蓉といふは即ち蓮花の事也。 今いふ芙蓉は木芙蓉といふもの也。 素堂は山口氏の隠遁したる也。 かの謝靈運か癖を傳へて蓮を愛せり。蓮庵と云、素堂といふ。 尤白蓮を愛せしと見えたり。 其氣性清潔たる、推して見るべし。 その素堂に對して、越人亦其向上の趣意を句作れり。 其ゆへは、此清香淨潔の蓮に實の多くみのる事こそ本意なけれ。 されば蓮の實の本意であるかといふ句作にして、 尤蓮の實情えお尋出し見附出したる向上の趣向也。 唯ひと通りの挨拶・洒落の句にてはあるまじ。 朝顔や此花にして實の多き といふ句をもつて解すべし。 此句、作者忘れたり。おのづから句意明か也。
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最終更新日
2021年04月25日 08時52分07秒
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