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山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

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2019年04月20日
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カテゴリ:山梨の歴史資料室

一、定家卿のかきたまへる伊勢物語  雑波江 

(岡本保孝) 甲陽軍艦に、今川家の秘蔵に仕る定家の伊勢物語を、酒にゑひたるふりをなされ、信玄御とりさふらふとてと見えたるに、松陰ノ記といふ書には、逍遥院の船ながしたるとよみたまひし。定家卿の伊勢物語は、御所よりたまはらせたまひて、こなたにありけるもやけぬといへり。定家卿のかきたまへりといふは、いたくふるからねど、今の世にある本にくらべては、よき事もおほからんに、うせぬるはをしきことになん。

 

 一、見きり   松の落葉(藤井高尚)

 

 甲陽軍艦に、山本勘助がいへらく、まけ軍にも見きりをよくしてふみとゞまるべしといへり。げにさることにて、たゝかひのみかは何事をなすにも、此見きりといふことを心えてあらんには、いたくあやまることはあらじ。

 

 一、甲州勝手小普請のこと(抜粋) 蜑の焼藻の記(森山孝盛) 

寛政三年五月十八日、御目見になりて後は、様々の下問に預りたり。定信(『甲斐国志』編纂者)朝臣の下げられたる封書のうちに、医師減祿のことありけり。又近来甲州勝手小普請と云事始められて、於 江戸 心を不改やからは、甲州へ貶流せらるゝことになりたり。然れば血気のやからは、わざと悦びて、江戸の大借の金子を其儘打やりて、重荷おろしたる心地にて、しかもしかも事々敷引つくろひて、甲州に趣山聞えたれば、是又御教戒にも当らず、詮なきことなるべし。所詮減祿せらるべきや否、愚案を申べき由尋問れければ謹で案るに、諸医元祖は名医なりしに付て、高禄を給りしより、其子は親に不及、其後は代々祿に飽みちて、家業うとき者も飢ずこゞへず、妻子を養ひて罷過候より、自然と下手にのみ成行候。此頃家業にいとく御用に不立者は、減祿有べき由被 仰出 候へ共、其證を見せられず候間、疲馬むちに驚き候ごとくにて、痛の止候へば、又元の如く怠りを生じ候。ひとり二人も現に其證を被示候はゞ、一般にひゞきて、自然と眞實に業をみがき候様可 罷成 候。

又甲州へ被遺候者共、御厳戒を物共思はざる趣聞え候に付、諸士減祿せらるべき趣のことは、暫御勘弁あるべきにや。何程不敵なる物にもせよ、夫は上部の血気、俗諺に申候負おしみと申物にて、一旦はわざとかさをとり、何とも思はぬふりを仕候得共、舊里を離れ邊鄙へ罷在べきこと、其身は血気くるひ候共、妻子の嘆き行末の成行、彼是以て内存には甲州勝手に進みて罷るべきは、一人も有間敷候はんか、又医師は家業に疎く候ては、實に不益の祿にこそ候へ、諸士は弓引すべをしらず、太刀を取る作法も辨へず候共、何事あらん時、何れ驅出して役に立ずしては候べき。殊に先祖は並びなき手柄をも顕し、二つなき忠をも奉レ存候者に候へばこそ、代々祿をも賜り候ことに候へば、医師とはいさゝか差別も候様に存候なれ、先ず医師減祿の證を見せられて、其後諸士減祿を被 仰出 ても、遅かるべからずと書たり。(後略)

 

 一、松平定信・曲淵景露  蜑の焼藻の記(森山孝盛)

 寛政三年五月、(定信が)御目付になりて、其年のことになりけり。曲淵景露朝臣(出羽守・初勝次郎、于レ時御目付)御作事奉行になりて、西丸吹上御門の升形の塀を修造するに、其比は定信朝臣の計ひにて、御城郭といへ共、故なき堀圍なんどは廃し捨られ、又は御模様替とて、昔より板塀なりしを、此度は損益を考へて、練塀に作りかへて、長き所も直に短くして、無害は改め作られて、専に費用を省かるゝことになりにしに彼吹上御門の升形の時(俗に高石垣とて、外桜田御門よりは高くそびへて見ゆる肝要な塀なり)練塀にすべき由沙汰あるにより、定信朝臣に逢てかゝる事承り候ひぬ。彼所は御郭外より見付第一の所と云、彼所は御城外より塀は元来矢狭間筒狭間を切候こと勿論に候得共、御治世の御在城左迄には不レ及ゆへか、御外郭の塀何処にも狭間の事に見当たり候はね共、既に筋違浅草両御門の升形には、于今隠し狭間を切て候なり。云々

 

 一、甲陽軍艦の著者、高坂弾正  卯花園漫録(石上宜續)

 甲陽軍艦を高坂弾正書たると、世に傳ふる事久し。勝頼に仕へし反町大膳武功の人にて、甲州滅て後引籠り隠れ居たる物には、香坂としるせり。姓も違ひ、偽妄多き書なりといへども、軍国の事情を能書たる故、其虚妄を人は疑はず。控弦の家専読むべき物と、古人も云しなり。然れども其事実を按じ、其真意を考へずば、大に惑はれなん事必然なり。川中島九月十日の合戦の事、記せしに依て是を論ずる内、信玄の敗北たる事疑ふべからず。卯の刻に初りたるは越後の方勝、巳の刻に始りたるは甲州の勝なりと記せり。軍は芝居を踏へたる方をもって勝とする事を、甲陽軍艦に論ず、明白なり。然れば其日戦、信玄芝居を踏へられしとは云べからず。既に山本勘助が其軍を豫め云たりしにも、二萬の兵を一萬二千、謙信の陣西条山へさし向、合戦を始めなば、越後の軍勝つとも負るとも、川を越退ん所を、旗本組二陣を以て、首尾を撃んと謀しなり。然れば謙信客戦なる故に、思ふ勝利を得たりとも、越後へ引返すは極りたる事なり。是主戦の敵に勝たればとて、宜しく其地に在るべきに非るを以てなり。是を以ていへば、信玄芝居を踏たればとて、勝とは云べからず。是一つ。又信玄芝居を踏へたりとも云がたきは、甘糟近江守犀川を渋りて三日止りたるを、甲斐より押寄て軍する事能はざりき。是越後の軍芝居を踏へたるに非ずや。是二つ。昔老人の物語に云傳へし事あり。信玄嫡子義信を殺されしは、継母の讒言ありしといへども、其實は川中島にて、信玄、義信将□に換らして、信玄は廣瀬の方へ引退く、敗軍とは云ながら、義信を捨殺すべき勢なりし故義信深く恨めるを以て、終に不和に及て殺されしに至れるとなり。信玄其場を踏む事能はずして、迯たるを以て、芝居を踏へたると云べきや。是三つ。謙信もとより甘糟を以て、川を渉るの後殿と定められしが、三日止りたるを以て見れば、甲陽軍艦に、甘糟が兵散亂せしと記せるも、虚妄なる時論を待ず。甘糟三日芝居を踏へたるに、謙信何事に狼狽して、主従二人高梨山に還りて走るべきや。謙信既に其前夜軍評定ありしに、謀しごとくなる旨、甲陽軍艦に記せし所明らかなり。初の合戦に打勝て、巳の時まで徒に敵の帰り来るを待敗走すべきや。謙信の弓箭を取れる越中の戦は、父の弔合戦なり。信濃に師を出すは村上義清に頼れて、其求めに應じて是を救ふなり。相模の軍は上杉憲政の来るを容て、巳む事を得ざるなり。故に其詞にも、強て勝敗を見るに非ず。當る所のなぎて叶はざるの戦をなさんとのべり。信義を守るを大将の慎むべき事にせり。爰を以て深く頼みたるには終始約をただへず、又其兵を用るに信玄の及ぶべきに非ず。山の根の城を攻落せしに。信玄氏康両旗にて後援する事能はず。遙々と敵の中を旅行して京都に赴きたるも、勝れたる事ならずや。信玄は謙信小田原へ攻め入たる跡に、討てなしたるはなし易きに非ずや。甲陽軍艦に、長沼を城を築れし時、判兵庫に信州水内郡にて百貫の地を與へ、信州戸隠にて、密供を修す。爰に北越の輝虎世に讒臣を企つと、〔割註〕此次切れて見えずと記せり。」永禄十一年謙信戸隠山にて、謙信を信玄呪咀する直筆の書を見て打笑ひ、弓箭とる身の恥なり。末代の寳物にせよと、神職に云れし由語り傳ふ。今其書紀州高野山にありと云。事詳に書記せる物あり。實は謙信を恐るゝ事、虎のごとしとも云べきにや。村上義清信州に再帰り入し事、甲陽軍艦に載せずといへども、永禄年中信州の中四郡謙信に属し、義清を信州へ入られし事を記する物あり。甲陽軍艦に長坂調(長)閑、跡部大炊助二人を、姦曲の臣として勝頼寵せられし事を深く憤れり。實にさる事なれども、二人權を取ることに勝頼に始れるに非ず。信玄の時分寵せられし故、勝頼に至りて深く威權ありき、信玄の時北条の兵に跡部敗れ走りしを、皆寵愛を憎しみ由を、甲陽軍艦に載たるをもって知べきなり。又云傳へしに説に、甲陽軍艦を著せし本意は弾正にて、筆執りは猿楽彦十郎と云ものなり。彦十郎は甲州滅て後、大久保忠隣の所にありて、東照宮の御事を書加へて、一書となしたるとなり。又或人の云しは、川中島の合戦の事を前夜に論じて、謙信強敵たる對々の人数にてさへ危きに、まして信玄の兵八千、輝虎は一萬二千なり。勝といふとも打死数多あるべきと、武田の名存は埋りなりと云ふ事を、甲陽軍艦に載たれば、勝は謙信にある事、分明なりと論ぜし人もありき。亦同じ書に載たる持氏生害、両上杉ほこり恣にて、武州川越にて北条に負たるは、天の罸なりと云へり。持氏の滅せしは永享十一年にて、氏康とは遙に百八年を隔たるを、同じ時に記せり。北条早雲は延徳二年に相模に打入たり。其頃上杉顕定は越後にあり。顕定は越後信濃の境長森原には、高梨に討れぬ。早雲さへ両上杉と如レ斯を、氏康いまだ生れざる以前の事共を、甲陽軍艦に記せし事誤りなり。天正六年七月十五日、管領朝定と北条氏綱と、武州川越の館にて夜軍あり、朝定討死なり。此合戦を両上杉と氏康、夜軍となして記せるにや。同十五年四月廿日、持氏の五代の後、古河の晴氏と、管領上杉憲政と共に、川越にて氏康と合戦ありて、晴氏憲政敗北なり。是を甲陽軍艦に、両上杉と氏康と記せり。されば五代以前の持氏を公方と記し、五代以後の管領を両上杉となすなり。持氏四男成氏の長兄公方政氏なり。同人の長男に高基、高基の長男晴氏なりといへり。甲陽軍艦に載る功名の事、其虚妄多し。中に就て采配を手にかけてありし敵を討とりて首を得し事、いくばくと云事を知らず。すべて甲州の敵せし士八人がた、采配を手にかけしと見ゆ。寔に笑ふべきの書の記しさまなり。其儘虚妄勝て計べからず。然れ共其時に居て、戦国の勢を能知り、且士の事情に達せし者の書たる書なるゆゑ、弓箭とる者の翫ぶべき書にて、虚妄をもって棄べきにはあらず。又上杉義春入道入庵、京都に閑居してありしが、徒然のあまり甲陽軍艦を讀せて聞かれしが、事實謬れる事多く、又なき人の名を作りこしらへたるものあり。謙信の世の事は、予能く知りたるに、如レ斯誤れるなれば、此書更に信ずる足らずとて、復讀する事なかりしと云へり。今をもって是を見るに甲陽軍艦過半は贋物なり。又按ずるに、今世の専ら行はるゝ書に、川中島五戦記と云へる書あり。此書は川中島の戦五度なりと記せり。然れども其中に疑ふべき事なきにしもあらず。是又正しき書とも信ぜられず。謙信鶴ヶ岡に詣で、忍の成田を打たりしかば、関東の諸将人々心々に離散し、小荷駄を敵に奪はれ、僅に謙信遁得て越後へ帰りしと、甲陽軍艦に記したるも心得られず。関東の諸将なびき従ずば、いかでか其年京に上る事あるべき。是年の情時勢の顕然たる事にして、甲陽軍艦の虚妄論を待ず。御上の説常山紀談に見えたり。

 

 一、甲陽軍艦の著者、高坂弾正   卯花園漫録(石上宜續)

 荻生徂徠の南留別志に、高坂弾正と云者、高野に書状あり。香坂弾正左衛門虎綱といへり。されば甲陽軍艦他人の偽作なり事、いよいよあきらかなり。

 

 一、甲陽軍艦第八    南畝莠言(大田南畝)

 甲陽軍艦第八云、人間六十二の身をたもとかねと云々。山谷跋 舊書詩巻 云、星家言。六十二不レ死。當壽八十餘。これらの事によりていふなるべし。一時の禅僧山谷の文をよみていひ傳へしなり。

 

 一、甲陽軍艦 峠と云ふ字    南畝莠言(大田南畝)

 峠といふ字、甲陽軍艦に「到下」と書、臥雲日件録には江文峠とあり。中国には峠とかきて「タヲ」といふ。峠市、佐野のタヲうけのタヲなどなり。

 

 一、甲陽軍艦 須磨寺の桜    南畝莠言(大田南畝)

 (前略)須磨寺に若木の桜制札とて紙に書しものあり。われは此制札の文を疑ふ事久し。(中略)因に云、甲陽軍艦〔第四十品〕関東上杉管領の制札に、此桜花一枝も折取候はゞ、あたり八間流罪死罪にん仰付らるべき者也。仍如件。とたてられたるなり。扨又、信玄公、甲府穴山小路眞立寺と申し法花寺に、紅梅の甲斐一国の事は申に及ばず、近国にもさのみ多なし。さるにつき右の眞立寺より花の制札を申請につき、則禁制の札に、此花一枝一葉たりといふともたおりとる輩これあるにおいて、げんかうかうようの例にまかせ申付べき者也。云々

 

 一、挟   嬉遊笑覧(喜多村信節)

 天正元年九月武田勝頼遠州に出て帰陣の處此時草履取二十内外の小者共十五人挟竹を以て惣手のあとにさがりたるを敵方の馬乗三騎出て草履取を一人きる所にて馬乗一人打落搦取。

 

 一、黒塗りの椀   嬉遊笑覧(喜多村信節)

 笛吹峠合戦の條合戦に手に合ざる者手柄の者上中下をさたして上の手柄には三膳或は二膳赤椀にて振舞又手に合ざる人々にて黒椀にて精進飯を喰せらる是を他国にては信玄公なされたると沙汰信形短気なる人にて如此云々(板垣信形也これは義家朝臣の甲乙の座を学びたる歟)手に合ざるとは戦功なかりしをいふ云々。

 

 一、古き謎   嬉遊笑覧(喜多村信節)

 永禄十二年甲州より小田原を責る條に内藤修理といふ者手から有ければ馬場美濃守より便を遣はし謎をかくるといとけの具足敵をきる内藤即小太刀とゝく美濃聞て本手よりは増なりとほむる是は美濃も修理も日来なそずきにてかくのことし。又味増峠の條内藤方より馬場方へ謎をかくるまつよひに更行かの聲きけはあかぬ罰の鳥は物かは美濃守則くるま車はなれうしとゝくとありはげしきとありはげしき戦いの中に好むことこそおかしけれ。

 

 一、曲   嬉遊笑覧(喜多村信節)

 關口とて馬のりの上手あり曲馬は本の事にあらずといへども是は一入重寶なり一丈

 

 一、曲 馬(甲陽軍艦)  嬉遊笑覧(喜多村信節)

 

 關口とて馬のりの上手あり曲乗は本の事にあらずといへども是は一入重寶なり。一丈二尺あるがけを飛おろし横一尺五寸の土居のうへをも早道或はいつさんをのる貫の木通又は板屋の上を早道に乗る其外あら馬強馬を乗て馬の藥飼まで上手なれは關東奥にも此關口ほどなるはなし俗説に小栗判官といふ者鬼かげといふ馬に騎て棋盤をものりたりといへり。小栗がことは鎌倉大草紙にも出たれ共鬼鹿毛といふ馬のことは見えず是も甲陽軍艦 武田信虎公秘蔵の鹿毛の馬のたけ(四尺)八寸八分にしてかんかたち譬へば昔の生食摺すみにも劣るまじと近国迄申ならはせば鬼鹿毛と名付と見えたり。俗説は是をとりて彼名としたりとみゆ。

 

 一、武田信勝(甲陽軍艦)  嬉遊笑覧(喜多村信節)

 武田信勝十一歳の時小姓友野一郎と日向小傳次と扇切いたせと御意の時、又一郎腰にさしたる扇をぬく、傳次は手に持たる扇を腰にさして指をたてゝ向ふ時、信勝はや見えたるぞおけ扇切に傳次は勝たりと心の逸物なるをほめ給ふ云々

 かくあるのみにて其法しられぬ共今ゐあひ抜が扇を空に投て地に落さず抜打にきる事をする。是もそのたぐひとみゆれど、指たてゝ向かふとなれば扇を投付などするを指にて打落すわざにや。

 

 一、武田信玄(甲陽軍艦)  嬉遊笑覧(喜多村信節)

 武田信玄幼き頃其姉今川義元の室より母義のかたへ貝覆の為にとて蛤を贈る處に其時信玄勝千代殿と申たる時なれば御母公より女房達を以此蛤の大小を扈従に申付えりわけて給はれとの御事にて大をはえりて参らせられ小の蛤たゝみ二帖じきばかりにふさがり高さ一尺も有つらむ云々。

 

 一、甲陽軍艦  嬉遊笑覧(喜多村信節)

 内藤修理と長坂釣閑口論の處侫人を作らぬみたけの鐘をつけと云。釣閑そこにて腹を立おのれが分として某にみたけの鐘をつけと百姓あてがひの申やう口惜しき次第也。云々

 

 一、甲陽軍艦 扇  嬉遊笑覧(喜多村信節)

 おし板に釘の者書たる扇の掛て有を見て云々、おし板は板をはりたる床なり折釘は扇を掛ることあれば中釘なり。今は扇かけとて紫の組ひもなどにてさまざま風流に作り總角などかけたるは陽明家の御好とかや。

 

 一、甲陽軍艦 武田勝頼  嬉遊笑覧(喜多村信節)

 天正元年九月勝頼遠州に出て帰陣の處、此時草履二十内外の小者共十五人挟竹にて馬乗一人打落搦取。

 

 一、甲陽軍艦 笛吹峠合戦  嬉遊笑覧(喜多村信節)

 笛吹峠合戦の條、合戦に手に合ざる者手柄の者上中下をさたして上の手柄には三膳或は二膳赤椀にて振舞又手に合ざる人々にて黒椀にて精進飯を喰せらる是を他国にては信玄公なされたると沙汰有信形短気なる人にて如此云々。板垣信形也これは義家朝臣の甲乙の座を学びたる歟。

 

 一、甲陽軍艦 料理  嬉遊笑覧(喜多村信節)

 甲陽軍艦の料理を書たる圖に誠に十の膳ありしなりといへり。此こと今一種には栗の餅もいやいや米の餅もいやいやそば切り素麪食たいなと云つゝどうどうめぐりするなり。

 

 一、富士山  嬉遊笑覧(喜多村信節)

 ○『甲陽軍艦』奉献富士浅間願書あり。其中に士峯高山むろに於てひつそうしゆをうけ五郎の大乗經讀の事あり。萬の山むろとは山中にある處の室どもなり。今もむろといふひつそうし

ゆは 蒭衆にやこの山に登るは必一夜とまるなれば『鷹筑波集』に一夜とまりに身をぞくるしむ(といふ句に本勝寺日能)足よはき人のいらざる富士参富士参詣群集の事『猿楽狂言』にも見えたれば半腹に横をめぐるを中道といふことなどは猶後のこと

ゝ見えて『日次紀事』に近世以登山猶為容易 而有巡山腰者

是請横行道 又稱横出山上 其行程比攀躋 則倍道且険難不及言語 是為苦行とあり。云々

 

 一、甲陽軍艦 猿楽   嬉遊笑覧(喜多村信節)

 猿楽に高安道善と云者此頃天下一の大皷なり。此者若き太皷の天下一は大倉九郎と申者也。

 

 一、甲陽軍艦 料理   嬉遊笑覧(喜多村信節)

 甲界もみぬ奥山家の分限なる百姓料理するすべもしらず、海老を汁にして鯛を山椒みそにあへて鳫白鳥を焼物に鯉を菓子にして蜜柑をさしみにすれば能者どもいづれを取ても喰ふべきやうなく皆捨る。云々

 

 一、甲陽軍艦 灯籠見物   嬉遊笑覧(喜多村信節)

 永禄七年七月十四日の夜太郎義信公、長坂源五郎御供にて灯籠見物に事よせ御城を忍出て飯富兵部所にて亂鳥迄談合云々。

 

 一、甲陽軍艦 上杉家の盗賊   嬉遊笑覧(喜多村信節)

 上杉家の盗賊はやりし頃高野ひじり半弓にて鍋釜盗人を射殺しければ則政これに千貫の知行をあたへて足軽大将にしたる事みゆ。

 

 一、甲陽軍艦 太田源五郎   嬉遊笑覧(喜多村信節)

 武州岩付(岩槻)太田源五郎幼少より犬ずきをする松山の城に飼立てたる犬を五十疋居城岩付にて飼立たるをば松山の置しに松山に一揆起りけるに文を竹筒に入れ犬の頭に結付十疋放しければ片時に岩付へ持来しとぞ。

 

 一、甲陽軍艦 茶   嬉遊笑覧(喜多村信節)

 四国浪人村上源之丞堺の紹鴎が雑談を聞て語る数奇者と茶湯者は別なり。茶湯者は手前よく茶立て料理よくしていかに鹽梅よくする人を申し、数奇者は振舞に一汁一菜茶を雲脚にても心の奇麗なるを名付て呼候。元来数奇は禅僧より出たり、意地を肝要にして誠多き心ざしを執行の人のたつる茶を数奇者の振舞といふ。

 

 一、山本晴幸の開眼 傍廂(斎藤彦麿)

 山本勘助晴幸は、素性賤く、五體不具なれど、系図正しき豪勇の士には遙まされり。あるとき甲斐の諸将を集めて、軍慮の物語する席に、小兒三人交れり。小宮山助太郎、小山田八彌、秋山友市なり。助太郎は談中しづまりて、うづくまりて、よく聞き居たり。八彌はわらひ居たり。友市は退屈して、度々座を立ちたり。晴幸この三兒をつくづくと見て、助太郎は赤心うごかぬ丈夫にて、八彌はこゝろ定まらず。友市は不忠の名をのこすべしといひしに、はたして、助太郎は後に小宮山内膳と云ひ、故ありて甲州を浪人しつれども、勝頼天目山にて生涯の頃、わざわざはせかへりて、死を共にして義を立てたり。八彌は後に小山田八左衛門と名のり、勝頼生害の頃、善光寺(甲斐の)にげ行きしなり。友市は後に秋山内記といひ、又摂津守に任ず。勝頼生害の五日以前に、甲州を出奔し、敵方の織田信忠へ降参しつれども、不忠の逆賊なりとて、しばり首うたれたり。晴幸は一眼ながらよく見ぬきたり。

 

 一、甲陽軍艦 四大将    筆のすさび(橘 泰)

 甲陽軍艦に載する、當時の四大将と云ふは、武田信玄、上杉謙信、北条氏康、織田信長なり。毛利元就は、時の先後遅速故か載らず。謙信は四十九歳にして、天正十六年に卒す。辞世の句に、四十九年夢中醉レ。一期栄花一盃酒と作られたり。信玄は天正元年五十歳にて卒す。辞世の句に、大底還 他肌骨好 不レ塗 紅粉 自風流、と作られたり。かって自詠に

  人は城人は石垣人は掘なさけは味方仇は敵なり

 と詠して、生涯城郭を構えず軍を仕られたり。云々

 

 一、金    柳庵雑筆(栗原信充)

 甲州の金工の説に、山吹金四十八匁八分あり、上に鎔て四十四匁を得る。依て是を四四の金と云ふ。極品なりと云へり。深井庄兵衛入道常甫(甲州金座)が説に、無交銀六十目焼つめ四匁六釐(りん)になる。元和小判位の金となる、四匁七分六釐の金焼つめ三匁八分となる。是より何日焼ても耗らずと云へり。但し常甫の銀を鎔化て、金と為すと云ふ説は、小判六十目と云ふ説の本據にして、實に銀をて金と為すにはあらずと、殿村常久が語りし。






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最終更新日  2021年04月25日 07時23分24秒
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